第6話 禁魔の監査官と、魔法なしの“ふわもち”
ルーカスは今朝、珍しく温度計を置いた。焼くのは角食パン。外は薄く、内側は絹みたいにほどける“生”のやつだ。
「戦争より、トーストの焼きムラの方が厄介だ」
【禁忌の業火】で窯を二百十・〇度へ、【天候操作】で湿度を五十八へ——そう手を伸ばした瞬間、鈴が鳴った。
「朝食用の白いパンを寄越せ」
魔王グラディオが私服で現れ、棚を睨む。
「孤児院へ配りたいのです」
聖騎士セラフィナも同じ棚を睨む。平和だ。怖いほどに。
そこへ三人目。
真っ黒な制服、胸に銀の徽章。《禁魔庁》と読める。痩せた青年が紙を突き出した。
「終焉の魔導師ルーカス。禁忌級魔法の“私的利用”を確認。営業停止を——」
「うるさい。パンが冷める」
青年は眉を吊り上げ、床に円陣を描いた。
光が広がり、空気が“すん”と静かになる。
魔力が、消えた。
「禁魔結界です。ここ半径百メートル、魔法は使えません」
ミーナがぎょっとする。
「えっ、じゃあ焼けないじゃん!」
窯の火が弱まり、発酵中の生地が不安そうに膨らむ。最高の瞬間を止める【時間停止】も、湿度を整える【天候操作】も動かない。
魔王が低く唸った。
「貴様……我の朝食を奪う気か」
聖騎士も静かに前へ出る。
「法であっても、聖域の秩序を乱すなら——」
「粉が舞う」
ルーカスの一言で二人はピタリと止まった。学習している。腹が立つ。
青年は勝ち誇った顔で言う。
「どうしました? 魔法がなければ、ただの——」
「ただのパン屋だ」
ルーカスはエプロンの紐を締め直し、窯の口を開けた。魔法ではなく、薪を足し、火を読む。手の甲で熱を測り、耳で薪の爆ぜる音を聞き、鼻で湿度を嗅ぐ。
生地を型に収め、指先で表面を撫でた。
「ふわもちの“芯”は、魔法じゃ作れない。……作るのは手だ」
焼き上がり。
角は立ち、表面はつるりと白い。切れば、湯気がふわっと立って、内層が羽毛みたいに揺れた。
ミーナが思わず声を漏らす。
「うそ……魔法なしで、これ……」
魔王が一切れを掴み、震えた。
「この柔らかさ……軍議が三時間伸びる……!」
聖騎士も頬を赤らめる。
「……慈悲です。食べた人が、争えなくなる味」
「食レポ禁止。冷める」
青年監査官は黙っていたが、喉が小さく鳴った。
ルーカスは一枚を渡す。
「証拠品だ。食え」
青年は一口。目が見開かれ、次の瞬間、膝が抜けた。
「……な、なんだこれは……禁魔結界の中で……こんな……」
「営業停止の紙、どうする」
「……破棄、します。いえ、正確には“見なかったことに”」
魔王と聖騎士が同時に頷く。
「賢明だ」
「列に並べば、許します」
ミーナがにっこり。
「監査官さんも常連入りですね! ルールは同じ、武装解除・私服・行列でーす!」
青年は顔を真っ赤にして、木箱に徽章をそっと置いた。
こうしてベーカリー・エデンは、魔法がなくても聖域のまま。
そして今日も、焼きたてのために世界は静かになる。




