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最強の魔導師だった俺、隠居して辺境でパン屋を開く~なぜか伝説の魔王や聖騎士が常連客になってしまい、のんびりできない件について~  作者: 綾瀬蒼
(1)章

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第5話 伝説の魔王、パンの耳をめぐって敗北する

 ベーカリー・エデンの朝は、最近やたらと“格式”が増えていた。

 武装解除、私服、行列、戦闘禁止——ここまではいつも通り。問題はその先だ。


「……本日の限定。バゲットの“耳”。十袋」


 ミーナが鐘を鳴らして告げると、店内の空気が一段重くなった。

 バゲットの端。焼き締まった皮が厚く、香りが凝縮した部分。常連たちはそこを「耳」と呼び、あらゆるパンの頂点と崇めている。ルーカス的には端っこの調整が面倒なだけだが、需要があるなら売る。商売である。


 ルーカスは石窯の前で温度計を見つめた。

 【禁忌の業火】千分の一。二百四十・三度。湿度五十五。

 耳を作るには、焼き始めの十秒がすべてだ。熱量が足りないと香りが逃げる。強いと苦くなる。


「……止まれ」


 【時間停止】。生地の表面が跳ねる、その一歩手前で世界を止める。焼き色が“決まる瞬間”だけを固定し、解除。

 パチ、パチ、と皮が割れ、香りが膨れ上がった。


 そこへ、鈴。


 魔王グラディオが入ってきた瞬間、棚を見て目を輝かせた。

 聖騎士セラフィナも同時に棚を見て、喉を鳴らした。……いや、鳴らしたように見えた。見なかったことにする。


「耳……だと」

「耳……ですか」


 二人の声が重なる。

 戦場で重なることのないはずの声が、パンの前では揃う。


 村長ボルドが腕を組み、さりげなく貼り紙を追加した。

《バゲットの耳:抽選販売》

 その下に小さく、

《※争った者は失格》

 とある。


「抽選……?」

 魔王が歯ぎしりした。

「公平です」

 聖騎士は即答した。


 ミーナが箱を持ってきた。中には木札が入っている。番号札ではなく“くじ”だ。


「はい、お一人一回だけ! 魔王さまも聖騎士さまも例外なし!」

「我は例外であるべき存在だ」

「例外の人ほど例外にしないと揉めるんですよー」


 ルーカスは耳の袋詰めをしながら、心の底から思った。

 世界の支配者だろうが聖域の守護者だろうが、菓子の前では幼児と同じだ。


 抽選が始まる。

 村人たちが一人ずつ札を引き、当たりが出るたび小さく歓声が上がる。

 魔王と聖騎士は、箱の前で異様に背筋を正していた。


「……我が引く」

「順番です。列に並んでください」


 小競り合いが発生しかけたので、ルーカスが一言。


「粉が舞う」


 二人は即座に静かになった。学習している。腹は立つが。


 そして、ついに——魔王が札を引いた。

 木札には、でかでかと書いてある。


《ハズレ》


 空気が止まった。

 魔王グラディオの肩が、目に見えて落ちた。


「……なぜだ」

「運です」

 聖騎士セラフィナは真顔で言う。自分の手には《当たり》の札がある。やたら神々しい。


 魔王の拳が震える。

 だが剣はない。戦闘禁止。

 代わりに彼は、ゆっくりと聖騎士を睨んだ。


「譲れ」

「譲れません」

「魔界の財宝を半分やる」

「いりません」

「……では、停戦期間を一ヶ月延長する」

「え」


 聖騎士の瞳が揺れた。

 店内の村人たちもざわめく。

 “耳”が、世界の停戦を動かした。


 ミーナが慌てて割って入る。

「だめだめ! 会談は外! 焼きたてが冷める!」

「ここが外だ」

「店内です!」


 ルーカスが額を押さえた。

「……政治をするな。冷める」


 しかし、魔王は本気だった。

 あの魔王が、耳のために和平を差し出している。


「……セラフィナ。貴様が耳を一袋譲れば、停戦を延長する。人間の民は助かる。どうする」


 聖騎士は唇を噛んだ。

 正義の心と、耳への欲望が殴り合っている顔だ。


 数秒の沈黙の後、彼女は——袋を一つ、そっと差し出した。


「……停戦、二ヶ月」

「よかろう」


 握手が交わされた。

 村長が即座に羊皮紙を取り出し、勝手に条文を書き始めた。

 外交官が涙を流している。

 何だこの店。


 魔王は袋を抱えて席に着き、耳を一欠片かじった。


 バリッ。


 その音だけで、彼の表情が溶けた。


「……この硬さ……この香り……」

 声が震える。

「我は今、世界を支配している」


「食レポ禁止」

 ルーカスが言う。

「……冷める」


 聖騎士は耳の袋が減ったことを惜しむように見つめ、ぽつりと呟いた。


「停戦が延びたのなら……正しい取引です」

「顔が悔しそうだぞ」

「気のせいです」


 ミーナが小声で言う。

「ルーカスさん、次は“耳の耳”作りましょう! もっと稼げます!」

「やめろ。世界が壊れる」


 そうして今日も、パンの端っこが、戦場より重い価値を持った。

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