第48話 ミーナの合図、世界へ鳴る
無音は、まだ残っていた。
だが第47話の一瞬、窯の割れ音が戻った。
あの一拍で分かった。
《無音籠》は絶対じゃない。
熱と“作法”に弱い。
夜明け前、ルーカスは店の床を拭きながら言った。
「……今日は勝ち方を変える」
ミーナが白旗を握ったまま頷く。
「壊さないで、守る?」
「守るだけでもない」
ルーカスは短く言う。
「“鳴らす”」
鈴。
ユリウスが入ってきて、地図を広げた。
「残党は昨夜の失敗で焦る。次は各地へ《無音籠》を分散投入し、同時に列を崩す」
魔王が鼻で笑う。
「なら同時に焼くしかない」
聖騎士が頷く。
「同時焼きの日を、今日に前倒ししましょう」
竜王が低く言う。
「余の谷も鳴らす。低音で」
レオンが小声で言った。
「……無音でも通じる“視覚合図”を、世界で統一するなら今です」
ミーナが息を吸った。
「私、やります」
ルーカスは一瞬だけ目を細めた。
ミーナが揺れれば列が揺れる。
だが、揺れないミーナはもういる。第23話で証明した。
昨夜も、白旗を上げ直した。
「……任せる」
ルーカスは短く言った。
「俺は焼く。お前は鳴らせ」
本日のパンは“塩パン”。
香りを奪われても、底の“ジュッ”と焼ける気配が残る。
そして何より、噛むと必ず音が出る。
無音でも、口の動きが揃う。
ミーナは黒板に書いた。
《世界同時合図:本日 正午》
《赤旗=開始/青旗=配給/白旗=停止》
《無音でも旗を見る》
《動いたら負け》
怖い字は今日も強い。
正午が近づくにつれ、平和通りの空気が張り詰めた。
村の列、一般の列、配給の列。
そして、昨夜の残党の影が混じる。私服で、行列に紛れ、目だけで探る。
ミーナは鐘の前に立ち、旗を持った。
ルーカスは窯の前に立ち、塩パンを焼いている。
魔王、聖騎士、竜王、ユリウス、レオン——常連たちは列の“外側”に立ち、動かない。威圧で守る。今日はそれでいい。
正午。
ミーナが赤旗を上げる。
——その瞬間、無音が落ちた。
司祭の《無音籠》が、また来た。
鐘は鳴らない。
窯の音も消える。
香りも薄れる。
最悪の静けさが、平和通りを包んだ。
だが、ミーナの腕は止まらなかった。
赤旗を、真っ直ぐ上げた。
そして口だけで言う。唇で読めるように。
《はじめます》
合図係が真似する。
列の中の子どもが真似する。
避難民の母親が真似する。
みんなが、赤旗を“目で”受け取る。
次にミーナは青旗を持ち替え、上げる。
配給。
列は動かない。停止の白旗がまだ出ていないからだ。
“開始”と“配給”を同時に鳴らさない。二重化の基本。
無音でも守れるよう、順番を固定した。
残党が焦った顔をする。
恐怖で崩れないなら、偽合図で崩す。
彼らは白旗を振る真似をした。停止だ、止まれ。いや、今は止まっている。混乱させたい。
そこでミーナが最後に、決め手を出した。
白旗を高く上げる。
そして、白旗の裏側に縫い付けた小さな文字を見せる。
《本物:ミーナ》
署名。
“合図責任者”の視覚版だ。
偽物が真似できないのは、署名の位置と縫い糸の色。ミーナが夜通し縫った。
レオンが小声で言っていた「役割の共有」を、ミーナは“印”にした。
列の人々がそれを見て頷く。
偽物の旗は無視。
本物の印だけが合図。
音がなくても、作法が働く。
その瞬間——遠くの通信石が一斉に光った。
王都、聖都、港町、竜の谷、中立商都。
同時刻に、同じ旗が上がったという報告。
遠い場所で同じ色が揺れている。
それだけで、心が少し落ち着く。
そして、世界のあちこちから“噛む音”の報告が届く。
『丸パン、焼けた』
『塩パン、配給開始』
『偽合図、無視できた』
『列、崩れず』
無音の中でも、報告の文字は踊った。
生活が鳴っている。
司祭は通りの端で、初めて苛立ちを隠せない顔をした。
《なぜ…従わない》
唇がそう動く。
ミーナは震える手で、それでも青旗を上げ直した。
《従ってません》
《並んでます》
ルーカスは窯の前で塩パンを取り出し、列に渡した。
香りがなくても、温かさはある。
味が薄くても、噛む動きは揃う。
その揃いが、恐怖の網をほどいていく。
無音が少しずつ薄れる。
《無音籠》が熱を嫌っている。塩パンの底の熱が、窯の熱が、通りの温度を上げる。
生活の熱は、支配の箱を鈍らせる。
やがて——チリン。
小さな鐘が戻った。
ミーナが一回だけ鳴らす。
上書き合図。
列が、静かに進む。
ルーカスはミーナの横で、短く言った。
「……よく鳴らした」
「怖かったです」
「怖くても鳴らしたなら、勝ちだ」
世界同時に鳴ったのは、鐘じゃない。
旗でもない。
“作法”だ。
そしてルーカスはいつもの言葉で締める。
「パンが冷めるぞ」




