第47話 中立地崩し――半径100メートルの侵入
無音の中で、世界が薄くなった。
薪の爆ぜる音も、列の足音も、誰かの咳もない。
あるのは、目の動きと、唇の形だけ。
司祭の腰の箱——《無音籠》は、ルーカスのデコピンすら吸った。
指が効かない。
それは、ルーカスにとって最悪の知らせだった。
魔王グラディオが一歩出る。肩が揺れるほど怒っているのに、音が出ない。
聖騎士セラフィナは剣帯を置いたまま、手を前に出す。
竜王は息を吸い、しかし吐けない。吐いても音にならないからだ。
ユリウスは記録札を掲げた。だが、札は“音”と同じで、ここでは重みがない。
ルーカスは目だけでミーナを見る。
ミーナは白旗を握り、列へ向けて上げた。
白——停止。動くな、崩れるな。
列は、止まったまま耐えている。
崩れない。……だが、恐怖で固まっている。平和じゃない。
司祭は唇だけで笑った。
《合図は、恐怖に勝てない》
そして、手を軽く払う。
黒い外套の残党たちが、通りの内側へ入ってきた。
本来なら半径百メートル以内は戦闘禁止。
暗黙のルールが、破られた。
レオンが前に出る。唇が動く。
《列に入れ》
残党が鼻で笑う。無音でも分かる、嫌な表情。
彼らは列に入らない。列を崩すために来ている。
その瞬間、司祭がもう一つ箱を叩いた。
今度は——香りが消えた。
焼けていたバゲットの甘い匂いが、ふっと途切れる。
ミーナの目が大きく揺れる。
避難民の列が、わずかに波打つ。
腹が、恐怖を言い訳にし始める。
ルーカスは胃を押さえた。
音がない。香りがない。
次に来るのは、味だ。
司祭が唇で告げる。
《中立地は、幻想だ》
残党の一人が、わざと列の前へ出た。
割り込み。
最悪の一手。
列の作法が試される。崩れれば終わり。
だが——列は動かなかった。
白旗が見えている。停止。
みんな、足を踏ん張る。
動いたら負け。怖い字は、無音でも効く。
司祭が僅かに眉を上げた。
崩れないなら、崩す材料を足す。
残党が小瓶を掲げた。
ミーナの“種”に似せた偽物の瓶。泡もある。
視覚だけで人を騙す。禁味の得意技。
残党はそれを床に落とした。
パリン、と割れる音はない。だが液体が広がるのは見える。
人々が一瞬、息を止める。
《毒だ》
残党の唇がそう動いた。
恐怖が走る。
列が揺れる。
止まった足が、前に出たがる。
奪い合いの前兆。
ミーナが青ざめながら、赤旗を上げた。
赤——開始。
違う。今は開始じゃない。
ミーナの手が震えて、旗が乱れる。
ルーカスは一瞬で理解した。
“合図の二重化”は、音が死んだ時に視覚へ頼る。
だが視覚合図は、持ち主が揺れれば揺れる。
ミーナが揺れれば、列が揺れる。
ルーカスはミーナの横に立ち、旗の棒を握った。
彼女の手の上から、静かに支える。
そして、口を動かす。
《止める》
白旗へ。
ミーナが頷き、白旗を上げ直す。
列が、再び固まる。
今度は恐怖じゃなく、作法で止まった。
司祭がゆっくり近づく。
狙いは旗でも列でもない。
窯だ。
窯が止まれば、今日の焼きたてが止まる。
焼きたてが止まれば、作法の象徴が折れる。
司祭が窯の前に立つ。
唇が動く。
《火を消す》
残党が水袋を持ち上げる。
薪に水をかければ終わり。
音も香りも味もない世界で、火だけが最後の“温かさ”だ。
それを消されたら、列は耐えられない。
ルーカスは、初めて迷わず魔法に手をかけた。
だが、破壊じゃない。
“守る”ための魔法。
【時間停止】。
ほんの一瞬。
水袋が傾く直前で、世界を止める。
無音はそのまま。だが“動き”だけが止まる。
ルーカスは止まった世界で、水袋をそっと取り上げ、外套の中の《無音籠》の箱を見た。
衝撃を吸う素材。
なら——熱には弱い。
止まったまま、ルーカスは窯の熱い鉄板を箱に当てた。
ジュウ、と音はないが、煙が上がる。
解除。
時間が動き出す。
箱の表面が赤く熱せられ、司祭の指が反射で離れる。
無音が、一瞬だけ薄くなった。
——パチッ。
窯の中で、バゲットの皮が割れる音が戻った。
ほんの一拍。
その一拍が、列の腹に刺さる。
ミーナが鐘を掴み、たった一回だけ鳴らした。
チリン。
上書き合図。
列が呼吸を取り戻す。
司祭は後退し、唇で笑った。
《面白い》
無音はまだ消えていない。
だが、中立地は“完全には折れていない”。
半径百メートルの侵入は成功しつつも、作法と火が踏ん張っている。
ルーカスは窯の前で、低く言った。
「……粉が舞う。外でやれ」
今夜、ここは初めて“外”になった。
聖域は守るだけでは足りない。
奪われる前に、世界へ分け切らなければならない。




