第37話 偽合図の三回と、塩パンの“本当の音”
竜の谷から戻った翌朝、ベーカリー・エデンの前には列が二本できていた。
パンの列。――合図屋の列。
しかも合図屋の方が長い。胃がきゅっと鳴る。
「……本業を返せ」
ルーカスが呟くと、ミーナが黒板を指した。
《本日:合図相談 午前のみ》
「誰が決めた」
「村長です!」
「殺す」
「畑に刺すのは禁止です!」
そんな騒ぎの中でも、焼く。今日の新作は塩パン。バターを巻き込み、上に粗塩。焼けるとき、底が“ジュッ”と鳴る。
「……音が大事な日だ。焦がすな」
【禁忌の業火】は使わない。耳でいく。
鈴。魔王、聖騎士、竜王、ユリウス。全員、合図屋の列を見て同時にため息をついた。
「広がったな」
「秩序が増えています」
「余の谷の低音、評判が良い」
「条文化——」
「するな」
ルーカスが即座に切る。冷める。
そのとき外で、低い音が鳴った。
ゴン、ゴン、ゴン。三回。
配給の合図だ。なのに、まだ開店前。
列がざわっと揺れた。避難民の顔が一瞬で固まり、一般列が前へ詰めかける。
「配給だ!」
「今だ、先に——」
「粉が舞う!」
ルーカスが怒鳴る前に、ミーナが鐘を鳴らした。チリン、チリン、短く三回。
「ちがいまーす! 今の低音は偽物! 列は動かないで!」
ゴン、ゴン、ゴン。もう一度。今度は通りの端から。
ユリウスが目を細める。
「偽合図だ。合図を乱せば列が崩れる。禁味残党のやり口だな」
魔王が肩を回す。
「叩いた奴を——」
「外でやれ」
ルーカスが即座に言う。
「ここで暴れると、塩が飛ぶ」
ルーカスは焼き台の塩パンを一つ掴み、外へ出た。
平和通りの端、空き樽を叩いていた男がいる。低音を真似たつもりらしいが、音が軽い。腹に来ない。
「合図を偽れば、列は乱れる。乱れれば映える。世界に流せば——」
男が笑った瞬間、ルーカスは塩パンを男の口に押し当てた。
「噛め」
「は?」
男が反射で噛む。ジュッと焼けた底、塩の粒、バターの熱。
噛む音が出た瞬間、男の目が一拍遅れて丸くなる。
「……なん、だ……」
「本当の合図は、これだ」
ルーカスは淡々と言った。
「腹が落ち着く音。奪う手が止まる音」
聖騎士が男の手首を取り、穏やかに告げる。
「偽合図は“恐怖”です。ここは“安心”の合図だけ」
竜王が低く言う。
「余の谷の音を汚すな」
ユリウスが手錠を鳴らす。
「業務妨害。連行」
「……外でやれ」
ルーカスは最後にデコピンを添え、男を境界線の外へ飛ばした。畑は避けた。最近の自分が怖い。
店に戻ると、塩パンがちょうど焼き上がっていた。底がジュッ、と静かに鳴る。
ミーナが鐘を鳴らす。チリン。今度は一回、落ち着いた音。
「焼き上がりましたー! 列、ゆっくり進みまーす!」
列は崩れない。偽合図が鳴っても、動かない。
みんな、もう学んでいる。
“本当の合図”は、鐘でも低音でもなく——焼きたてを受け取って噛む、その一瞬だと。
ルーカスは棚に塩パンを並べ、いつものように言った。
「パンが冷めるぞ」




