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最強の魔導師だった俺、隠居して辺境でパン屋を開く~なぜか伝説の魔王や聖騎士が常連客になってしまい、のんびりできない件について~  作者: 綾瀬蒼
(2)章

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第36話 合図の出張と、風に負けない“低音”

 平和通りの朝は、最近やけに賑やかだ。

 パンの列だけじゃない。《合図屋》の列までできている。


「……本業を返せ」

 ルーカスがぼそりと言うと、ミーナが黒板を指した。

《本日:合図出張(試験運用)/パンは通常営業》

「誰が書いた」

「村長です!」

「殺す」

「畑に刺すのはダメですよ!」


 出張先は、竜王の谷。風が強すぎて鐘が鳴りっぱなしになり、合図が“安心”ではなく“焦り”になっているらしい。

「風に勝つ合図じゃなく、風に負けない合図を作る」

 ルーカスは工具袋を肩にかけ、嫌そうに言った。

「……低い音だ。響けばいい」


 同行者は最悪だ。

 竜王(依頼主)、聖騎士(同行の名目が救護)、ユリウス(監査)、魔王(暇つぶし)、ミーナ(当然)、レオン(手伝い)。

 誰か一人でも欠けてほしいが、欠けない。腹が立つ。


 竜の谷は想像以上に風が鳴っていた。岩肌に風が当たり、常に「ごう」と低く唸る。

 谷の入口には避難民の仮設区画があり、配給の列ができかけていた。だが合図が無く、列がじわじわ波打っている。腹の鳴りが焦りを呼ぶ。


「ここで鐘を鳴らすと、風が鳴らし続ける」

 竜王が言う。

「落ち着く前に、苛立つ」

「うるさい鐘は、争いを生む」

 聖騎士が真顔で頷いた。

「合図は一回でいいんです」


 ルーカスは周囲を見回し、岩を叩いた。

 コン、と乾いた音。

 次に大きめの岩を叩く。

 ゴン、と腹に響く音。


「……これだ」


 ミーナが目を輝かせる。

「石の鐘!?」

「鐘じゃない。合図だ」

 ルーカスは冷たく言い、岩の内側に空洞を作る位置を探る。

 レオンが小声で続けた。

「低い音は風に埋もれにくい。さらに“回数”を決めれば合図になる。禁味が嫌うのは、こういう秩序です」

「暗い知識で誇るな」

「はい……」


 竜王が爪で岩を削ろうとしたので、ルーカスが即座に止めた。

「吐息で削るな。粉が舞う」

「岩粉も粉か」

「粉だ」

 竜王は渋々、工具を受け取った。爪より不器用で腹が立つ。


 合図はシンプルにした。

 谷の中央に置いた“響き石”を、木槌で二回叩く。

 《開く》は二回。

 《配給》は三回。

 《喧嘩禁止》は一回長く——ゴォン。


 ユリウスがすぐ条文にしようとしたので、ルーカスが睨んだ。

「条文化するな」

「……覚書だ」

「同じだ」


 試験運用。

 竜王が木槌を握り、ぎこちなく二回叩く。

 ゴン、ゴン。

 低音が谷に広がり、風の唸りの下に“芯”が通った。


 不思議なことに、列の波が止まった。

 人が、音の回数を数えている。数えると、手が止まる。手が止まれば、拳が止まる。


 ところがそのとき、谷の端で誰かが叫んだ。

「合図は偽物だ! 竜王が支配するために作った!」

 噂屋だ。禁味の残り火が、まだ風に混じっている。


 魔王が肩を回す。

「消し飛ばすか」

「店じゃないが、粉が舞う」

 ルーカスが即座に言うと、魔王が止まった。止まるのが腹立つ。


 代わりにミーナが前に出た。

「支配じゃありません! 並ぶためです!」

 レオンも小声で続ける。

「……合図があると、待てる。待てると、奪わない」

 その“静かな声”が、案外届いた。


 竜王は噂屋を睨み、低く言った。

「余は支配したいなら、合図など要らぬ」

 説得力が強すぎて、噂屋は黙った。


 聖騎士が列に向かって穏やかに告げる。

「三回鳴ったら配給です。二回なら開きます。——それだけ覚えてください」

 列の中の子どもが、指で回数を数えながら頷いた。


 ルーカスはそれを見て、少しだけ息を吐く。

 合図を分ければ、象徴は薄まる。

 薄まれば、燃やされにくい。


「……帰るぞ」

 ルーカスが言うと、竜王が木槌を宝物みたいに抱えた。

「余の谷の新しい作法だ」

「作法を宝にするな」

「する」


 帰り道、ミーナが小声で聞いた。

「ルーカスさん、これ……いろんな町でやるんですか?」

「やらない」

「でも、もう依頼来そうですよ?」

「来るな」

 ルーカスは嫌そうに言ってから、結局付け足した。

「……来るなら、列に並べ。順番を守れ」


 そして、遠くでゴン、ゴン、と低音が鳴った。

 風の中でも消えない合図が、谷の人を静かに立たせていた。

 ルーカスは胃を押さえながらも、いつもの一言で締めた。


「パンが冷めるぞ」

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