第36話 合図の出張と、風に負けない“低音”
平和通りの朝は、最近やけに賑やかだ。
パンの列だけじゃない。《合図屋》の列までできている。
「……本業を返せ」
ルーカスがぼそりと言うと、ミーナが黒板を指した。
《本日:合図出張(試験運用)/パンは通常営業》
「誰が書いた」
「村長です!」
「殺す」
「畑に刺すのはダメですよ!」
出張先は、竜王の谷。風が強すぎて鐘が鳴りっぱなしになり、合図が“安心”ではなく“焦り”になっているらしい。
「風に勝つ合図じゃなく、風に負けない合図を作る」
ルーカスは工具袋を肩にかけ、嫌そうに言った。
「……低い音だ。響けばいい」
同行者は最悪だ。
竜王(依頼主)、聖騎士(同行の名目が救護)、ユリウス(監査)、魔王(暇つぶし)、ミーナ(当然)、レオン(手伝い)。
誰か一人でも欠けてほしいが、欠けない。腹が立つ。
竜の谷は想像以上に風が鳴っていた。岩肌に風が当たり、常に「ごう」と低く唸る。
谷の入口には避難民の仮設区画があり、配給の列ができかけていた。だが合図が無く、列がじわじわ波打っている。腹の鳴りが焦りを呼ぶ。
「ここで鐘を鳴らすと、風が鳴らし続ける」
竜王が言う。
「落ち着く前に、苛立つ」
「うるさい鐘は、争いを生む」
聖騎士が真顔で頷いた。
「合図は一回でいいんです」
ルーカスは周囲を見回し、岩を叩いた。
コン、と乾いた音。
次に大きめの岩を叩く。
ゴン、と腹に響く音。
「……これだ」
ミーナが目を輝かせる。
「石の鐘!?」
「鐘じゃない。合図だ」
ルーカスは冷たく言い、岩の内側に空洞を作る位置を探る。
レオンが小声で続けた。
「低い音は風に埋もれにくい。さらに“回数”を決めれば合図になる。禁味が嫌うのは、こういう秩序です」
「暗い知識で誇るな」
「はい……」
竜王が爪で岩を削ろうとしたので、ルーカスが即座に止めた。
「吐息で削るな。粉が舞う」
「岩粉も粉か」
「粉だ」
竜王は渋々、工具を受け取った。爪より不器用で腹が立つ。
合図はシンプルにした。
谷の中央に置いた“響き石”を、木槌で二回叩く。
《開く》は二回。
《配給》は三回。
《喧嘩禁止》は一回長く——ゴォン。
ユリウスがすぐ条文にしようとしたので、ルーカスが睨んだ。
「条文化するな」
「……覚書だ」
「同じだ」
試験運用。
竜王が木槌を握り、ぎこちなく二回叩く。
ゴン、ゴン。
低音が谷に広がり、風の唸りの下に“芯”が通った。
不思議なことに、列の波が止まった。
人が、音の回数を数えている。数えると、手が止まる。手が止まれば、拳が止まる。
ところがそのとき、谷の端で誰かが叫んだ。
「合図は偽物だ! 竜王が支配するために作った!」
噂屋だ。禁味の残り火が、まだ風に混じっている。
魔王が肩を回す。
「消し飛ばすか」
「店じゃないが、粉が舞う」
ルーカスが即座に言うと、魔王が止まった。止まるのが腹立つ。
代わりにミーナが前に出た。
「支配じゃありません! 並ぶためです!」
レオンも小声で続ける。
「……合図があると、待てる。待てると、奪わない」
その“静かな声”が、案外届いた。
竜王は噂屋を睨み、低く言った。
「余は支配したいなら、合図など要らぬ」
説得力が強すぎて、噂屋は黙った。
聖騎士が列に向かって穏やかに告げる。
「三回鳴ったら配給です。二回なら開きます。——それだけ覚えてください」
列の中の子どもが、指で回数を数えながら頷いた。
ルーカスはそれを見て、少しだけ息を吐く。
合図を分ければ、象徴は薄まる。
薄まれば、燃やされにくい。
「……帰るぞ」
ルーカスが言うと、竜王が木槌を宝物みたいに抱えた。
「余の谷の新しい作法だ」
「作法を宝にするな」
「する」
帰り道、ミーナが小声で聞いた。
「ルーカスさん、これ……いろんな町でやるんですか?」
「やらない」
「でも、もう依頼来そうですよ?」
「来るな」
ルーカスは嫌そうに言ってから、結局付け足した。
「……来るなら、列に並べ。順番を守れ」
そして、遠くでゴン、ゴン、と低音が鳴った。
風の中でも消えない合図が、谷の人を静かに立たせていた。
ルーカスは胃を押さえながらも、いつもの一言で締めた。
「パンが冷めるぞ」




