第33話 焼きたての“鐘”が鳴らない日
朝、ミーナが鐘を磨いていた手を止めた。
チリン、と鳴らそうとして——鳴らない。
「……あれ?」
もう一度。
鳴らない。
ルーカスは嫌な予感で胃を押さえた。
「……何した」
「何もしてないです! いつも通り磨いて、いつも通り——」
鐘の内部を覗くと、舌がない。
抜かれている。綺麗に。
「盗まれた……?」
ミーナの声が震える。
「鐘が鳴らないと、開店の合図も、配給の合図も……」
外を見ると、三列がすでにできている。
村の列、一般の列、配給の列。
だが今日は、列が“落ち着かない”。人が人の顔を見ている。合図がないと、不安が先に立つ。
鈴が鳴る——はずの場所で、鳴らない。
その沈黙が、禁味の沈黙に似ていて腹が立った。
鈴、ではなく扉が開く。
「……鐘がないのか」
魔王グラディオが入ってきて、すぐに空気を察した。
「嫌な手だな」
聖騎士セラフィナも眉をひそめる。
「合図を奪えば秩序が揺らぎます」
竜王は窓の外の列を見て低く唸る。
「火を消せば、獣が出る」
ユリウスが即座に紙を広げた。
「物品窃盗。しかも公共秩序の破壊。……禁味残党の可能性が高い」
元禁味庁の青年レオンが、皿を拭く手を止めた。
「……禁味は“無音”を好みます。音があると、人が集まる。集まると統制が難しい」
「声が小さいのは偉い」
「はい……!」
ルーカスはため息をつき、窯の前に立った。
「鐘がないなら、別の合図だ」
「別の合図?」
ミーナが不安そうに聞く。
「焼き音で知らせる」
ルーカスは淡々と言った。
「……パンが焼ける音は、盗めない」
本日の焼きは“バゲット”。原点。
皮が割れる音——パチッ、パチッ——が、鐘の代わりになる。
【禁忌の業火】は使わない。今日は“音”そのものが武器だ。
薪をくべ、火を強め、窯を二百四十度近くまで上げる。
生地に切れ目を入れ、蒸気を当て、皮が張る瞬間を待つ。
開店時刻。
鐘は鳴らない。
代わりに、窯の中から——
パチッ。
小さな音が店内に落ちた。
ミーナが目を見開く。
外の列も、同じ瞬間に静かになった。聞こえるはずがないのに、空気が変わる。焼きたては、そういう匂いじゃない“気配”を持つ。
パチ、パチッ。
音が続く。
ルーカスが窯を開け、バゲットを取り出す。香りが立つ。皮が歌う。
ミーナが思わず叫びそうになり、口を押さえた。偉い。
ところが——店先の端で、黒い影が動いた。
列の中をすり抜ける、フードの男。手には小さな袋。中身は金属。鐘の舌だ。
「……返せ」
ミーナが震える声で言う。
男は笑った。
「合図は危険だ。人が集まる。人が集まれば、また争いが生まれる。——禁味は正しかった」
またこの理屈か。
男が袋を投げ、舌を粉の袋へ落とそうとする。金属が粉を汚せば、今日は焼けない。列が荒れる。
狙いが最低すぎて、逆に的確だ。
「粉が舞う」
ルーカスの低い声で、男の動きが止まった——止まらない。今日は“音”を奪う覚悟で来ている。
ルーカスは無言で前へ出て、男の額に指を当てた。
「外でやれ」
デコピン一発。男は鐘の舌ごと、境界線の外へ飛び、空き地に転がった。
畑は避けた。もはや反射だ。
ユリウスが淡々と書き足す。
「窃盗未遂と業務妨害。逮捕」
魔王がぼそり。
「鐘を奪うとは、貴様らも暇だな」
聖騎士が頷く。
「平和は“静けさ”ではなく“秩序”です」
竜王は鼻を鳴らす。
「鐘は火だ。奪うな」
ミーナが舌を拾い上げ、鐘に戻そうとする手が震えた。
「……怖かった」
「怖くても、戻せ」
ルーカスは短く言う。
「鐘はお前の仕事だ」
ミーナは深呼吸し、舌をはめた。
チリン。
音が戻る。
その瞬間、外の列が一斉に肩を下ろした。
音は、味より先に人を落ち着かせるらしい。
ミーナが鐘を鳴らす。
「焼き上がりましたー! 本日も開店でーす!」
ルーカスはバゲットを棚に並べ、いつもの言葉を口にした。
「パンが冷めるぞ」
鐘が鳴らない日でも、焼きたては鳴った。
奪えない合図がある限り、この店はまだ折れない。




