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最強の魔導師だった俺、隠居して辺境でパン屋を開く~なぜか伝説の魔王や聖騎士が常連客になってしまい、のんびりできない件について~  作者: 綾瀬蒼
(2)章

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第32話 乾かすな危険――食べる合格証の“ラスク化”事件

 クロワッサンの朝は忙しい。層を折って休ませて、また折って——人間関係より手間がかかる。

 ルーカスは台に生地を叩きつけ、短く言った。


「……今日は“食える合格証”の追加だ。昨日、足りなかった」


 ミーナが黒板を出す。もう慣れたのが腹立つ。

《合格証は食べます(※持ち帰り不可)》


「持ち帰り不可って言っても、みんな袋に入れたがるんですよねぇ」

「袋に入れると、転売が始まる」

「始まってます……」


 そこへ鈴。

 入ってきたのは、見覚えのある闇市場の顔——ではない。もっと“普通”の顔をした商人風の男だ。笑顔は柔らかいのに、目が計算している。


「いやあ、噂の“食べる証明書”を仕入れたくてね」

「仕入れるな」

 ルーカスは即答した。


 商人は肩をすくめる。

「誤解ですよ。保存食としてですよ。乾かしてラスクにすれば日持ちする。難民の移動にも便利だ。善行でしょう?」


 善行の皮を被った利権の匂いがする。禁味の残り火と同じ匂いだ。

 ユリウスが入ってきて、紙をめくりながら言った。

「“証明の保存”は、実質転売だな」

 魔王も鼻で笑う。

「善行は腹から始まるが、商売は腹の外だ」

 聖騎士が真顔で頷く。

「公平が壊れます」

 竜王は窓の外の列を見て低く言った。

「乾いたものは、また燃える」


「……乾かすな」

 ルーカスは商人を見た。

「合格証は、噛んで終わりだ」


 商人はにっこりしたまま、革袋を掲げた。中から出てきたのは——昨日の合格証そっくりの薄いパイ生地。

「もう作りました。ほら、似てるでしょう?」

 ミーナが青ざめる。

「うそ……偽造……!」


 レオン(仮スタッフ)が小さく息を飲んだ。

「……層の“見た目”だけは真似できる。禁味の手口です。外側だけ整える」


 商人は得意げに言う。

「これを“乾かして”配れば、通行証としても使える。食べなくても持ち運べるから価値が出る。つまり——」


「粉が舞う」

 ルーカスの声が落ちた瞬間、店内の空気が凍った。

 魔王も聖騎士も竜王も、止まる。止まるのが腹立つほど効く。


「通行証にするな」

 ルーカスは続けた。

「そして、店で商売を企むな。……冷める」


 商人は笑顔のまま、偽物を一枚かじった。

「ほら、美味い。見分けなど——」


 ルーカスは無言で、本物の合格証を一枚持ち上げた。

 昨日と同じ格子模様……ではない。今日は中央に、薄い切れ込みが入っている。


「……今日は中身入りだ」

「中身?」

 ミーナが目を丸くする。


 ルーカスは切れ込みから、ほんの少しだけ白いクリームを覗かせた。

 “聖水(魔水)”を一滴混ぜた、温度で一気に緩む特製。焼きたてのうちに食べれば軽い。

 だが、持ち帰って乾かせば——油が回って一晩で不味くなる。保存に向かない。


「持ち歩くほど価値が落ちる。乾かすと最悪になる」

 ルーカスは淡々と言う。

「証明は“今ここで噛む”ためのものだ」


 商人の笑顔が初めて引きつった。

「そんなの、商品として——」

「商品にするな」


 商人が偽物の束を掴んで逃げようとした瞬間、聖騎士が礼儀正しく腕を取った。

「列の秩序を乱しました」

 魔王が低く言う。

「俺たちの噛む時間を奪うな」

 ユリウスが手錠を鳴らす。

「詐欺未遂。連行」

 竜王が息を吸う。

「余の前で乾かすな」


「……外でやれ」

 ルーカスが最後に言うと、商人はデコピンで境界線の外へ飛び、空き地に転がった。畑は避けた。もはや職人技だ。


 騒動が収まるころ、窯からクロワッサンが出た。

 パリッ、と層が割れ、バターの香りが戻る。

 ミーナが鐘を鳴らす。


「焼き上がりましたー! 本日のクロワッサン! 合格証(中身入り)はその場で食べてくださーい!」


 列は静かに動き、みんなその場でかじった。

 パリッ。

 甘い。軽い。今しかない味だ。


 レオンが皿を拭きながら、ぽつりと言った。

「……“今ここ”に価値を置くの、禁味と真逆ですね」

「当たり前だ」

 ルーカスは次の生地を折り込む。

「奪って持ち帰るな。噛んで終われ」


 そして、いつもの一言。

「パンが冷めるぞ」

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