第3話 半径百メートル条例と、カヌレの焦げ目
ルーカスは小さな型を並べ、無言で睨んでいた。今日の相手はバゲットでも塩パンでもない。外が黒く飴色に焼き締まり、中がとろりと濡れる菓子――カヌレだ。
「焦げ目は黒じゃない。艶だ」
【禁忌の業火】を千分の一で灯し、窯の温度を〇・一度単位で追い込む。仕上げの一瞬、飴が“割れる寸前”で【時間停止】。香りだけが先に立ち上がり、空気が甘く痺れた。最後に“聖水(魔水)”をひと吹き。蒸気が生地の表面を撫で、焦げの一歩手前で艶が生まれる。
そこへミーナが、紙束を抱えて飛び込んできた。
「ルーカスさん! 村長が『今すぐ署名!』って!」
村長ボルドは店の中央に羊皮紙を広げた。表題にはでかでかと書いてある。
《ベーカリー・エデン周辺 戦闘禁止条例(半径百メートル)》。
「黙認にも限界がある。村の畑が毎回刺さり場になるのは困る」
「俺は客を飛ばすのをやめないぞ」
「飛ばすのはいい。畑以外にしろ。……それと、署名欄が足りない」
ルーカスが嫌な予感で顔を上げた瞬間、鈴が鳴った。
「我が名をここに刻め、と?」
魔王グラディオが外套を払って入ってくる。帽子の角は今日も出ている。
「この条例は聖域の証。署名する価値があります」
聖騎士セラフィナも真顔で頷いた。
「政治は外でやれ」
「署名は政治ではない」
「治安だ」
「……似てる」
そのとき、行列の最後尾にいた“客”が、やけに不自然に咳払いした。二人。片方は聖騎士風、片方は魔族風のローブ。どちらも目が、パンではなく魔王と聖騎士を見ている。
「ここで停戦など、許されぬ……」
「甘い匂いに騙されるな……」
隠し持った短剣が、袖から覗いた。
ミーナが笑顔で言う。
「お客さま、武装解除してくださーい」
「これは……箸だ」
「刃物の箸は初めて見ましたねー」
剣呑な空気が膨らむ前に、ルーカスが低く言った。
「粉が舞う。外でやれ」
「ただのパン屋が――」
言い切るより早い。魔王と聖騎士が同時に立ち上がり、二人の“過激派”の肩を掴む。息が合いすぎて、逆に怖い。
「俺たちの至福を邪魔するな」
「焼きたての時間を汚さないでください」
ルーカスはため息をつき、指先で軽く弾いた。デコピン二連。二人は仲良く店外へ滑空し、きっちり百メートル先の空き地に着地した。畑じゃない。今日は完璧だ。
静寂の中、窯が小さく鳴いた。カヌレの表面が、飴の膜を張って割れる音だ。
「……焼けた」
ルーカスが取り出すと、黒に近い飴色が艶を帯びて光った。指で叩けば、コン、と硬い音。割れば中は湯気と一緒にとろりとほどける。
魔王が一口かじり、震えた。
「この殻……鎧か!? 噛むたびに甘い雷が走る……!」
聖騎士も目を潤ませる。
「外は戒律、中は慈悲……信仰そのもの……!」
「食レポ禁止。冷める」
村長が咳払いして羊皮紙を差し出した。
「署名、頼む。ついでに判もくれ。公式にしてしまえば、余計な奴も減る」
魔王が署名し、聖騎士が署名し、最後にルーカスが渋々ペンを取る。
「……俺の店を、勝手に世界の会談所にするな」
「でもルーカスさん、これで“戦争よりパン優先”が条例になりましたよ!」
「最悪だ」
そう言いながら、ルーカスは次の型に生地を流し込んだ。
今日もまた、焼きたてのために世界が静かになる。




