第29話 種の分け前と、列の“授業”
朝、ベーカリー・エデンのカウンターに、小さな瓶がずらりと並んだ。
泡の立つ天然酵母の“種”。昨日、ミーナが夜遅くまで分けていたやつだ。
「……増えたな」
「増やしました!」
ミーナは胸を張る。
「昨日の残り火を見て思ったんです。奪われるから怖いなら、もっと“分けられる”ようにしちゃえばいいって!」
ルーカスは胃のあたりを押さえた。
分ける=人が来る。人が来る=面倒が増える。
だが、もう逃げられない段階まで来ているのも事実だ。
元禁味庁の青年(仮スタッフ)は、慣れない手つきで札を書いていた。
《本日:種の分け前(希望者に少量)
※条件:列のルールを守れる人》
「字が硬い」
「す、すみません!」
「声がでかい」
鈴。
魔王グラディオ、聖騎士セラフィナ、竜王、ユリウスがいつものように入ってくる……が、今日はみんな瓶を見て真顔になった。
「分けるのか」
「公平に……」
「余も……」
「運用手順が必要だな」
「政治をするな」
ルーカスは即座に言い、窯に向き直った。
「今日は“授業”だ。列の」
「授業?」
ミーナが目を輝かせる。
「やった! “並び方講座”ですね!」
「講座とか言うな。増える」
――増えた。外の行列が、いつもより長い。
しかも、避難民だけじゃない。隣村のパン屋、遠方の店主、商人、そしてなぜか若い兵士までいる。
目的は一つ。種。
ルーカスは開店前に外へ出た。
平和通りの端に、黒板が立っている。誰が用意した。村長か。腹立つ。
黒板にはミーナの字でこう書かれていた。
《列の授業:合格した人だけ、種がもらえます》
「……やりすぎだ」
「必要です!」ミーナが即答する。
「昨日、残党が“列を崩して撮る”って言ってたじゃないですか。列が崩れないなら、攻撃が効かない!」
確かにそうだ。理屈としては。
ルーカスは黒板の前に立ち、短く言った。
「ルールは三つ。守れない奴は帰れ」
ざわ、と列が揺れる。
魔王が腕を組み、聖騎士が背筋を正し、竜王が面白そうに見ている。ユリウスは既にメモを取っている。やめろ。
「一つ。武装解除。私服」
「二つ。割り込み禁止」
「三つ。店の半径百メートルで喧嘩しない」
当たり前だ。だが当たり前を守るのが一番難しい。
そこで、わざと問題児が出る。
若い兵士が腕を組み、列の前へ出ようとした。
「俺は前線帰りだ。早く——」
ミーナが笑顔で言う。
「不合格です!」
「は?」
「理由:割り込み!」
兵士が怒鳴りかけた瞬間、魔王が一歩出た。
「列を守れ」
聖騎士が続ける。
「公平です」
竜王は低く笑う。
「余の谷なら、割り込んだ者は噛まれる」
ユリウスが紙を掲げる。
「条例違反。罰金」
兵士は黙って最後尾へ戻った。
列が、静かに納得する。
“強い奴が守るルール”は、案外浸透が早い。腹立つ。
次に、隣村のパン屋が手を挙げた。
「種をもらったら、店を増やしてもいいのか?」
「支店は作るな」
ルーカスが即答する。
「自分の店で焼け。お前の町の空気で」
パン屋は少し考え、頷いた。
「……分かった。自分の窯で育てる」
それでいい。
独占じゃなく、文化として育つなら。
授業の最後に、ルーカスは言った。
「合格者だけ、種を渡す。量は少ない。育てられない奴は返せ。死なせるな」
厳しい声のはずなのに、列は真剣に頷いた。
“種”は、味の源であると同時に、責任の塊だからだ。
開店。
ミーナが鐘を鳴らし、元禁味庁の青年が瓶を一つずつ手渡していく。
「毎日混ぜてください」
「温度を見てください」
「話しかけ……なくてもいいですけど、すると機嫌が」
最後の一言で、受け取った人が笑う。
笑いが増えると、列が崩れない。
列が崩れないと、禁味の残り火も燃え広がれない。
ルーカスは窯の前に戻り、今日のパン——シンプルな丸パンを焼いた。
香りが戻る。焼きたてが戻る。
そして、焼きたてを守る“作法”も、少しずつ世界に広がっていく。
ミーナが小声で言った。
「ルーカスさん、授業、成功ですね」
「成功じゃない。面倒が増えただけだ」
「でも、いい面倒です!」
「……それも腹立つ」
ルーカスは焼き上がったパンを棚に並べ、短く告げる。
「パンが冷めるぞ」




