第26話 休業日の札と、焼きたての休日
ベーカリー・エデンの扉に、珍しく札が下がっていた。
《本日 休業》
ルーカスは椅子に深く座り、湯気の立つコーヒーを見下ろした。
「……休日だ。世界よ、勝手に平和でいろ」
ミーナはエプロンを外し、頬を緩める。
「やっとですね! 今日は“焼かない日”です!」
「焼くな。粉も出すな。俺の胃を休ませろ」
――鈴が鳴った。
ルーカスは無言で天井を見た。
「……誰だ」
ミーナが恐る恐る扉を開けると、そこには私服の男が立っていた。帽子の角が、いつも通り微妙に出ている。
「休業……だと?」
魔王グラディオは札を見て、心底信じられない顔をした。
その背後には、白いコートの女性。聖騎士セラフィナ。さらに、竜王のコートの影。最後尾には、禁魔庁局長ユリウスが手帳を持っている。
「今日は偵察……ではなく、ええと」
「余は休日というものを学びに来た」
「私は……“休業の運用”を確認に」
「全員帰れ」
ルーカスが即答した。
外を見ると、三列ができかけていた。村の列、一般の列、配給の列。休業の札を前に、列が“困って”いる。
困った人間は、最も危険だ。腹だけが真実を言い出す。
ミーナが小声で言う。
「……あの、避難してきた人たちが“今日は何を食べれば”って」
「俺の休日が……」
ルーカスはコーヒーを一口飲んだ。苦い。だが腹は落ち着く。
そして立ち上がり、扉の札をひっくり返した。
《本日 休業(配給のみ)》
「……焼かない。だが配る」
ルーカスは言った。
「俺はパン屋だ。休むのは“焼き”だけだ」
今日の配給は、前日に仕込んでおいた硬焼きパンとスープ。火入れは最小。魔法も使わない。
それでも鍋が温まると、店内の空気が少しだけ軽くなる。
魔王が不満げに言う。
「焼きたては」
「ない」
「……我は何を噛めば」
「硬いのを噛め。噛めば落ち着く」
聖騎士が、配給の手伝いに回った。竜王が大鍋を運び、ユリウスが列の間隔を測って「条例に適合」とか言い出す。
ミーナは苦笑しながらも、酵母の小瓶を避難民の子に見せた。
「これ、育ててみる? 毎日、混ぜて、温度見て、話しかけるの」
「話しかけるの?」
「うん。機嫌、あるから」
子どもが真剣な顔で頷いた。
その瞬間、ルーカスの胃が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
配給が一段落し、列が静かに解散していく。
魔王が最後にぼそりと呟く。
「……休日でも、平和は腹からか」
「食レポ禁止」
ルーカスは言って、コーヒーのカップを持ち直した。
「……冷める」
休業日なのに、結局働いた。最悪だ。
それでも今日は、焼かなくても店が回った。ミーナが守り、みんなが並び、誰かが“種”を抱えて帰っていった。
ルーカスは扉の札を見て、小さく息を吐く。
「明日は……焼く。焼きたては、明日の仕事だ」
そしていつものように、短く告げた。
「パンが冷めるぞ」




