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最強の魔導師だった俺、隠居して辺境でパン屋を開く~なぜか伝説の魔王や聖騎士が常連客になってしまい、のんびりできない件について~  作者: 綾瀬蒼
(1)章

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第25話 ベーカリー・エデン、今日も開店

 禁味結界は、ある日ふっと薄くなった。

 灰色の杭は撤去され、平和通りに戻った風が、ようやく粉の匂いを運んできた。


 ――と言っても、世界が急に良くなったわけじゃない。

 禁味庁長官は失脚した、という噂が流れただけだ。記録札と、強行の証拠と、そして何より“種”が広がったことが、恐怖の支配を弱くした。

 味を奪っても、人は別の場所でまた焼く。独占できないものは、武器になりにくい。


 朝、ルーカスは窯の前で温度計を置いた。

 今日は、魔法を使わない。

 使えるが、使わない。


「……普通の食パンでいい」


 粉と水と塩と酵母。シンプルな四つ。

 手でこね、手で丸め、手で型に入れる。

 発酵の“最高の瞬間”で時間を止めたりしない。湿度を都合よく整えたりもしない。

 代わりに、窓の外の空を見て、薪の音を聞いて、店の呼吸に合わせる。


 ミーナがカウンターを拭きながら、胸元の小瓶を揺らした。

 天然酵母の“種”。泡は小さく、でも確かに生きている。


「ねえルーカスさん。今日、村の外から手紙が来ました」

「読まない」

「読んでください!」


 封筒には、いろんな紋章が押されていた。聖都、魔界、竜の谷、中立商都——そして、見慣れない町の印まで。


《“エデンの種”が育ちました》

《最初は酸っぱかったけど、続けたら甘くなりました》

《焼きたてを配ったら、喧嘩が止まりました》

《列の作り方を教えてください》

《店内で政治をしない方法も》


「最後のやつは無理だ」

 ルーカスは真顔で言った。


 鈴が鳴る。


 魔王グラディオが入ってきた。相変わらず帽子の角が出ている。

「……我が城下でも、焼けた」

 次いで聖騎士セラフィナ。今日は妙に穏やかな顔だ。

「聖都の孤児院で、パンが回っています。争いの言葉より早く」

 竜王も来た。谷の焦げ跡の匂いはまだ消えていないが、目は前より柔らかい。

「余の谷に“種”を植えた。土より手が要る。……だが育つ」

 ユリウスは最後に入ってきて、いつもの紙束ではなく小さなノートを差し出した。

「これは新条例案だ。“中立地の運用マニュアル”」

「お前までミーナ化するな」

「必要だ。世界が真似し始めた」


 店先では三列が、いつものように整っていた。

 村の列。一般の列。配給の列。

 その一番後ろに、見覚えのある少年が、少し背を伸ばして並んでいる。


「……カイル」

「お、おはようございます! 今日は……ちゃんと並びます!」

 新米勇者は、剣を預け、エプロンを持っていた。

「配給の手伝い、します。畑に刺さるのも……もう嫌なんで」


「畑はもう刺さり場じゃない」

 村長ボルドが横から言った。

「今は駐車場だ。税収が増えた」

「やめろ」

「やめない」


 窯が鳴く。

 食パンが、ふっくらと膨らんで焼けた。

 香りが戻る。粉と薪と、小麦の甘い匂い。

 店内が、ひと呼吸ぶんだけ柔らかくなる。


 ミーナが鐘を鳴らした。

「焼き上がりましたー! 本日の食パン、できたてです!」


 列が動く。

 誰も急がない。割り込まない。

 焼きたてを受け取って、黙って噛む。

 それが、ここで覚えた“平和の作法”だ。


 魔王がぼそりと言った。

「……世界を支配するより、毎日並ぶ方が難しいな」

 聖騎士が頷く。

「でも、続ければ慣れます」

 竜王が笑う。

「余は慣れぬ。だが、楽しい」

 ユリウスが淡々と書き足す。

「“並ぶ”は中立地の基本。条文化する」

「条文化するな」

 ルーカスが即座に言う。


 ミーナが小声で笑った。

「ルーカスさん、のんびりできそうですか?」

「できるわけがない」


 そう言いつつ、ルーカスはエプロンの紐を結び直し、次の生地を触った。

 世界はまだ面倒だ。人もまだ面倒だ。

 でも、焼きたてを分ける手が、あちこちに増えた。

 それなら、全部を背負わなくていい。


 ルーカスはいつもの看板を外に出し、短く告げる。


「ベーカリー・エデン、本日も開店。――パンが冷めるぞ」

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

『最強の魔導師だった俺、隠居して辺境でパン屋を開く~なぜか伝説の魔王や聖騎士が常連客になってしまい、のんびりできない件について~』は、「最強の力を“破壊”ではなく“焼きたて”に使ったらどうなるか?」という、ちょっと贅沢で、ちょっと不真面目な発想から始まりました。


ルーカスは、世界を救える力を持ちながら、救うよりも難しい“火加減”に悩み続けます。

魔王も聖騎士も竜王も、肩書きは重いのに、店の中では結局「並ぶ」「静かに食べる」「焼きたてを守る」という同じ作法に従う。そんな光景を、できるだけ真面目に、できるだけくだらなく書きたかったんだと思います。


終盤で登場した“禁味”は、恐怖で支配するために「味」を奪う装置でした。

でも、味や香りがなくても、人は温かいものを噛めば息を吐ける。

そして、独占できないもの——“種”が広がれば、平和は一軒の店の所有物ではなく、どこにでも育つ文化になる。

そんな落としどころに着地できたのは、ルーカス一人の強さではなく、ミーナの「守る」という意志と、列に並ぶ人たちの“日常の選択”があったからだと思います。


最後まで「店で政治をするな」「食レポ禁止」「粉が舞う」「パンが冷めるぞ」を繰り返しましたが、あれはルーカスなりの祈りです。

争いを止める言葉じゃなくて、目の前の焼きたてを守る言葉。

その積み重ねが、結果として世界を少しだけ静かにしていく——そんな物語でした。


もしよろしければ、感想で「好きだったパン」「好きだった回」「一番並びたくなった瞬間」など教えてもらえると嬉しいです。

次に焼くなら、どんなパンがいいでしょう。


最後までお読みいただきありがとうございます。


『おもしろい』『続きが見たい』と思いましたら…


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