第23話 ミーナの宣言――私が店を守る
禁味結界の中で迎えた朝は、ひどく静かだった。
香りがないから静かなのではない。人が、息を潜めている。
避難民の列は今日も長く、一般の列は短くなった。観光客は減り、代わりに“切羽詰まった人”が増えている。
ルーカスはフォカッチャの天板を出しながら、ふと思った。
この静けさは、平和じゃない。――恐怖だ。
鈴。
禁味庁の執行官が、昨日より多い人数で入ってきた。六人。隊列が揃い、目が硬い。
その後ろに、灰色の法衣の上から黒い外套を纏った男が立つ。顔は優しいのに、目が冷たい。
「禁味庁、次官代理。貴店の“中心人物”を連行する」
男は淡々と告げた。
「香りを奪っても、なお人を集める。これは扇動ではない。……“危険”だ」
ミーナが息を呑んだ。
魔王が低く唸る。
聖騎士の指が震える。
竜王の影が揺れる。
ユリウスは紙束を握り潰しそうになった。
「違法だ」
ユリウスが言う。
「中立地だ。連行には手続きが——」
「恐怖が根拠だ」
次官代理は昨日と同じ言葉で返した。
「手続きは後で作る。先に押さえる」
執行官たちが一歩前に出る。
ルーカスは息を吸った。いつもの言葉が喉まで来る。
粉が舞う。外でやれ。冷める。
――だが、今回は違う。相手は“店の外へ飛ばせば終わる程度”じゃない。連行されれば、店は終わり、配給も止まる。
ルーカスは、初めて迷った。
その瞬間、カウンターの向こうからミーナが前に出た。
小さな体で、執行官の列の前に立つ。
「……やめてください」
声は震えている。だが、引かない。
「この店は、パン屋です。政治の場じゃない。戦争の道具でもない。……お腹が空いた人が来る場所です」
次官代理が目を細める。
「君は誰だ」
「看板娘です。ミーナです」
ミーナは胸の前の小瓶をぎゅっと握った。天然酵母の“種”。第17話から彼女が世話している、小さな泡。
「ルーカスさんがいなくなったら、これも死にます。店も死にます。……人も倒れます」
執行官が鼻で笑う。
「なら連行して、国の管理下で——」
「無理です」
ミーナが即答した。
「これは“生き物”です。育てるのは、命令じゃできません。毎日、話しかけて、温度を見て、失敗して、やっと続くんです」
ルーカスは少しだけ目を見開いた。
話しかけているのか。あの種に。……やめろ、かわいいだろ。
次官代理が冷たく言う。
「結局、君も“扇動”の一部だ。なら一緒に——」
「粉が舞うから、やめてください!」
ミーナの声が、店内に落ちた。
禁味結界の中でも、その言葉は効いた。
魔王が笑った。
「言えるではないか」
聖騎士が頷く。
「立派です」
竜王は小さく息を吐く。
「余の谷の子らも、こう言えたら燃えなかった」
ユリウスが一歩前へ出る。
「次官代理。ここで強行すれば、記録は残る。禁味庁は中立地を踏みにじったと世界が知る」
「知ってどうする」
次官代理は笑う。
「味のない世界で、誰が怒る」
「怒る」
ルーカスが言った。
そしてミーナの隣に立つ。
「噛めば分かる。温かさは怒りを呼ぶ。奪われたら、人は必ず取り返しに来る」
ミーナが一歩前に出て、はっきり言った。
「ルーカスさんを連れていくなら、私が店を守ります」
次官代理が嘲る。
「君一人で?」
「一人じゃありません」
ミーナが振り向く。
配給列の避難民が、ゆっくりと立ち上がる。
村人が、店の前に並ぶ。
観光客の残りも、なぜか立つ。
そして常連たちが、同時に前へ出る。
「この店の静けさを壊すな」
魔王が低く言う。
「聖域です」
聖騎士が告げる。
「余の逃げ場を奪うな」
竜王が息を吸う。
「法はここにある」
ユリウスが紙を掲げる。
次官代理は一瞬だけ黙り、舌打ちした。
「……今日は引く。だが長官が来る。次は“店ごと”だ」
執行官たちは去った。
扉が閉まる。
静けさが戻る。だがそれは恐怖ではなく、噛む音の静けさだった。
ミーナはへたり込みそうになりながら、ルーカスに笑った。
「……守れました?」
「守ったのは俺じゃない」
ルーカスは短く言った。
「お前だ。……店の方が」
ミーナは涙を拭い、鐘を鳴らした。
「配給、続けます! 焼きたて、冷める前に!」
香りのない世界で、店はまだ温かかった。
そして次は——禁味庁長官が来る。焼きたてを奪うために。




