第22話 終焉の魔導師、香りなきパンを焼く
夜明け前、ルーカスは店の前で立ち止まった。
いつもなら扉の隙間から、小麦と薪の匂いが先に出迎える。――だが、ない。粉の匂いすら、世界から削ぎ落とされている。
「……来たな、禁味」
平和通りの外周に、灰色の杭が等間隔で打ち込まれていた。禁味庁の本隊だ。杭と杭を結ぶ薄い膜が、空気そのものを“無表情”にしている。
店内ではミーナが泣きそうな顔で桶を抱えていた。天然酵母の小瓶だ。
「ルーカスさん、匂いが……ない。怖いです」
「匂いがないだけだ。腹は減る」
鈴。
禁味庁の執行官が三人、私服どころか制服で入ってきた。条例? 中立? 知ったことかという顔だ。
「本日より平和通り一帯を禁味指定区域とする」
「味と香りは扇動だ。群集を煽る」
「貴店の販売は停止——」
魔王グラディオが椅子を引き、低く唸った。
「扇動? 貴様らがやっているのは支配だ」
聖騎士セラフィナも一歩前へ。
「ここは避難民の配給所です。止めれば人が倒れます」
竜王は窓の外の避難民を見て、声を落とす。
「余の谷を燃やした“結果”がそこにいる。まだ奪うのか」
ユリウスが紙を叩く。
「中立地への侵入記録は残っている。違法だ」
執行官は肩をすくめた。
「違法でも、恐怖が勝てば正義になる」
ルーカスは深く息を吸った。
「店で政治をするな」
そして、いつもより低い声で続ける。
「……粉が舞う。外でやれ」
「脅しは効かない。香りも味も消えている」
執行官が笑う。
「“焼きたて”の武器は、もうない」
「武器じゃない。飯だ」
ルーカスはすぐに仕込みに戻った。今日の新作はフォカッチャ。香りで勝てないなら、歯と腹で勝つ。
生地に塩を打ち、油を落とし、指で穴を開ける。穴は蒸気の逃げ道で、噛むたびの“むっちり”の起点だ。
窯に入れる直前、【禁忌の業火】を千分の一。温度を〇・一度刻みで追い込み、表面が“割れる寸前”だけ【時間停止】。
香りは立たない。だが、焼ける音だけは奪えない。
パチッ。
小さなひび割れの音が、静かな店内に落ちた。避難民の列が、思わず顔を上げる。
ルーカスは焼き上がったフォカッチャを大きく切り、湯気ごと皿に載せた。
「配給だ。温かいうちに食え。……噛め」
少年が一口。
味は薄い。それでも、頬が動き、肩が下がった。
「……あったかい」
その声が、今日いちばんの“香り”だった。
執行官の笑みが揺れる。
「……味がないのに」
「腹に落ちる」
ルーカスは淡々と言った。
「奪えるのは匂いと味だけだ。温かさと噛む音は奪えない」
魔王がぼそりと呟く。
「禁味の地獄でも、腹は満ちるのか」
聖騎士が頷く。
「なら、恐怖で支配する理由が消えます」
「食レポ禁止。冷める」
ルーカスが言うと、全員が黙って噛んだ。噛むしかないから、静かで平和だ。皮肉なほど。
執行官は一歩引いた。
「……報告する。長官に」
「並べ」
ルーカスは即答した。
「来るなら武装解除、私服、行列。守れ。――パンが冷めるぞ」
香りなき朝。
それでもベーカリー・エデンは、温かいものを配った。
禁味が奪えない“何か”が、噛む音の中で確かに残っていた。




