第21話 竜の谷が燃える――硬焼きパンと、逃げ場の味
朝、店の前に立つ竜王の顔色が、いつもより暗かった。
コートの襟は下ろされ、鱗のきらめきが露わになっている。隠す余裕がない、という顔だ。
「余の谷が燃えている」
竜王は短く言った。
「禁味庁の実験が飛び火した。香りを奪えば争いが消えると言い、村ごと“無味”にした。……結果、誰も譲らなくなった。乾いた心は、よく燃える」
ミーナが息を呑む。
「えっ……じゃあ、避難してくる人……」
竜王は頷いた。
「今夜、ここへ流れる。谷から出られた者だけだが」
ルーカスは胃の辺りを押さえ、いつもの言葉を飲み込んだ。
店で政治をするな。外でもするな。
——だが、避難民が来るなら、焼くしかない。
「……保存の利くやつ」
ルーカスは棚を見回し、即決した。
「硬焼きパンだ。乾パンじゃない。噛めば戻る、命のやつ」
本日の新作は“硬焼きのビスコッティ”。甘さは最小。油も控えめ。乾いても崩れず、湯に浸せば柔らかく戻る。配給列に向く。
昨日の三列に、今日は“緊急列”が増える予感がして、ルーカスは頭痛がした。
鈴。
魔王グラディオが入ってきて、竜王の顔を見るなり舌打ちした。
「禁味庁のやり口は不快だ。争いを消すと言いながら、争いを増やす」
鈴。
聖騎士セラフィナが真顔で頷く。
「救護隊を出します。……しかし、禁味結界が広がれば活動も」
鈴。
禁魔庁局長ユリウスが紙束を置く。
「禁味庁は“治安維持”の名目で各地に結界を敷いている。抵抗した自治体から順に“無味化”だ」
「……うるさい。焼く」
ルーカスは粉を量り、塩を落とす。
【天候操作】で湿度を整えようとして、ふっと手を止めた。
禁味の気配が、遠い空気に混じっている。村の外周に、薄い結界が張られつつある。じわじわ、包囲されている。
ミーナが小声で言った。
「ルーカスさん、怖いです」
「怖いのは……粉が舞うことだ」
言ってから、少しだけ自分に腹が立った。
夕方。竜の谷から避難民が流れ込んできた。
鱗の欠片を握りしめた子、焼け焦げた荷車を引く老人、声を出せないほど疲れた戦士。
彼らは武器を持っていない。持っていても持てない。だが目が空腹だ。
ルーカスは鍋に湯を沸かし、硬焼きパンを大皿に並べた。
「配給列、こっちだ。……一人二本。湯に浸して食え」
配られると、避難民の肩が少しずつ下がっていく。
噛む音が増え、泣き声が減る。
“逃げ場”の味が、ここにだけ残っている。
そのとき、村の端から鈍い音がした。
空気が、さらに軽くなる。香りが遠のく。禁味結界が、近づいている。
ユリウスが顔を上げた。
「来る。……禁味庁の本隊だ」
魔王が拳を握る。
「ここで止める」
聖騎士も頷く。
「中立地を破るなら、敵です」
竜王は低く言った。
「余の谷を燃やした者を、ここへ入れるな」
ルーカスは硬焼きパンをもう一皿置き、短く言った。
「……粉が舞う。外でやれ」
だが今回は、外でやっても粉が舞く。
結界が来れば、香りも味も消える。
ルーカスは油断なく窯を見つめた。
焼きたてを守る戦いが、ようやく“店の外”にまで溢れてきた。




