第2話 聖水をめぐる会談は、焼き上がり後に
朝、ルーカスは水桶を見下ろして眉間にしわを寄せた。
透明で、匂いもない。ただし——魔力が澄みすぎている。
「……減ってるな」
高純度の魔水。常連が勝手に“聖水”と呼び始め、いまや店の命綱になっている。皮を割らせ、香りを閉じ込め、しっとりした内層をつくる。これが切れると、ベーカリー・エデンの朝は終わる。
カウンターの向こうでミーナが頬を膨らませた。
「昨日、閉店後に誰か来ましたよね? 足音したもん。しかも……すっごい偉い人の」
「偉い奴ほど、やることが小さい」
ルーカスは小麦粉を量りながら【天候操作】で湿度を整えた。今日はバゲットではなく、塩パンの試作だ。
聖水の霧をどう当てるか——そこが勝負。
鈴が鳴る。
入ってきたのは、いつもの二人。魔王グラディオと聖騎士セラフィナ。もちろん私服、武装解除、行列——はまだないが、二人ともやけに姿勢が良い。
「……ルーカス。少し、相談がある」
魔王が咳払いをする。
聖騎士も同時に咳払いをした。息が合いすぎだ。
「本日は“交渉”に参りました」
「“会談”だ」
「“和平”です」
「“配布”だ」
四つの単語がぶつかり、火花の代わりにバターの香りが広がった。
「店で政治をするな」
ルーカスは即答した。
「……焼き上がりを待て。冷める」
しかし二人は引かない。なぜなら“原因”が店の裏側にあるからだ。
「昨夜、誰かがここへ侵入した」
聖騎士が真顔で言う。
「聖水——いや魔水が減っている」
魔王が同じく真顔で言う。
ミーナが指を立てた。
「つまり、犯人は“パンに詳しい”か、“パンに弱い”か、ですね!」
「その結論、いるか?」
ルーカスは生地をこねながら【時間停止】を一瞬だけかけ、グルテンのつながりを完璧な形で固定した。外の湿度、窯の火、塩の粒の角度。全部が揃って初めて、塩パンは“音”を出す。かじった瞬間、皮が「パリッ」と鳴くあの音だ。
そこへ——扉が静かに開いた。
黒いローブの老人。目元に金の刺繍。背中に、やたら重そうな本。
見るからに聖職者。だが足取りが、盗人のそれである。
「……お、おはようございます。わ、私は——旅の司祭でして。ええ。清らかな水を求め……」
聖騎士セラフィナの目が細くなった。
魔王グラディオの口角が上がった。
「旅の司祭が、なぜ“高純度の魔水”の存在を知っている?」
「そ、その……啓示が……」
「啓示は便利だな」
老人の指が袖口で動く。符が覗く。
次の瞬間、床に光の陣が広がった。
「魔王を討つため! そしてその聖水を——我が教団の“聖別の儀”に!」
言い終わる前に、ルーカスはパン生地を台に置いたまま、ため息をついた。
「……粉が舞うから、外でやれ」
「なっ、貴様はただのパン屋——」
老人が杖を振り上げる。
しかしその手首を、魔王と聖騎士が同時に掴んだ。
「俺たちの至福を邪魔するな」
「この店は聖域です」
敵対していたはずの二人の声が、完全に重なった。
老人の顔が青くなる。
「ま、まさか……共闘……!?」
「共闘ではない」
魔王が鼻で笑う。
「利害の一致だ」
聖騎士が頷く。
「焼きたてを守るために」
二人は老人を持ち上げ、店の外へ放り投げた。半径百メートル先——畑の上空で、老人は光の陣ごと“消えた”。いや、消えたように見えた。多分、どこか遠くの教会の物置に転送された。ルーカスは見なかったことにする。
「で」
ルーカスは何事もなかったように窯の前に戻る。
「聖水が減った分は、誰が補充する」
魔王が胸を張る。
「我が魔界の深層泉より、最高純度を献上しよう」
聖騎士が一歩前へ。
「聖都の祝福された泉を提供します。浄化済みです」
ミーナがぱちぱち拍手した。
「わー、供給ライン強化! これで新作いっぱい作れますね!」
ルーカスは頭を抱えた。供給が増えれば、客も増える。隠居が遠のく。
ちょうどそのとき、窯の中で皮が割れる音がした。
パチッ。香りが立ち上る。塩パンの試作品が、黄金色に焼けている。
「……焼けた。会談は、今からだ」
ルーカスが言うと、魔王と聖騎士は同時に背筋を正した。
「配布権を——」
「公平に——」
「静かに食え」
ルーカスの一言で、二人は黙って席に着いた。
かじる。
パリッ、と音が鳴る。
魔王が震えた。
「この塩……戦場の涙より尊い……!」
聖騎士も震えた。
「これは……信仰の味……!」
「食レポ禁止。冷める」
ミーナが小声でささやく。
「ルーカスさん、胃薬、二倍でいいですか?」
「……頼む」
こうしてベーカリー・エデンの朝は、また一日だけ世界を平和にした。




