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最強の魔導師だった俺、隠居して辺境でパン屋を開く~なぜか伝説の魔王や聖騎士が常連客になってしまい、のんびりできない件について~  作者: 綾瀬蒼
(1)章

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第2話 聖水をめぐる会談は、焼き上がり後に

 朝、ルーカスは水桶を見下ろして眉間にしわを寄せた。

 透明で、匂いもない。ただし——魔力が澄みすぎている。


「……減ってるな」


 高純度の魔水。常連が勝手に“聖水”と呼び始め、いまや店の命綱になっている。皮を割らせ、香りを閉じ込め、しっとりした内層をつくる。これが切れると、ベーカリー・エデンの朝は終わる。


 カウンターの向こうでミーナが頬を膨らませた。


「昨日、閉店後に誰か来ましたよね? 足音したもん。しかも……すっごい偉い人の」


「偉い奴ほど、やることが小さい」


 ルーカスは小麦粉を量りながら【天候操作】で湿度を整えた。今日はバゲットではなく、塩パンの試作だ。

 聖水の霧をどう当てるか——そこが勝負。


 鈴が鳴る。

 入ってきたのは、いつもの二人。魔王グラディオと聖騎士セラフィナ。もちろん私服、武装解除、行列——はまだないが、二人ともやけに姿勢が良い。


「……ルーカス。少し、相談がある」


 魔王が咳払いをする。

 聖騎士も同時に咳払いをした。息が合いすぎだ。


「本日は“交渉”に参りました」

「“会談”だ」

「“和平”です」

「“配布”だ」


 四つの単語がぶつかり、火花の代わりにバターの香りが広がった。


「店で政治をするな」

 ルーカスは即答した。

「……焼き上がりを待て。冷める」


 しかし二人は引かない。なぜなら“原因”が店の裏側にあるからだ。


「昨夜、誰かがここへ侵入した」

 聖騎士が真顔で言う。

「聖水——いや魔水が減っている」

 魔王が同じく真顔で言う。


 ミーナが指を立てた。

「つまり、犯人は“パンに詳しい”か、“パンに弱い”か、ですね!」


「その結論、いるか?」


 ルーカスは生地をこねながら【時間停止】を一瞬だけかけ、グルテンのつながりを完璧な形で固定した。外の湿度、窯の火、塩の粒の角度。全部が揃って初めて、塩パンは“音”を出す。かじった瞬間、皮が「パリッ」と鳴くあの音だ。


 そこへ——扉が静かに開いた。


 黒いローブの老人。目元に金の刺繍。背中に、やたら重そうな本。

 見るからに聖職者。だが足取りが、盗人のそれである。


「……お、おはようございます。わ、私は——旅の司祭でして。ええ。清らかな水を求め……」


 聖騎士セラフィナの目が細くなった。

 魔王グラディオの口角が上がった。


「旅の司祭が、なぜ“高純度の魔水”の存在を知っている?」

「そ、その……啓示が……」

「啓示は便利だな」


 老人の指が袖口で動く。符が覗く。

 次の瞬間、床に光の陣が広がった。


「魔王を討つため! そしてその聖水を——我が教団の“聖別の儀”に!」


 言い終わる前に、ルーカスはパン生地を台に置いたまま、ため息をついた。


「……粉が舞うから、外でやれ」


「なっ、貴様はただのパン屋——」


 老人が杖を振り上げる。

 しかしその手首を、魔王と聖騎士が同時に掴んだ。


「俺たちの至福を邪魔するな」

「この店は聖域です」


 敵対していたはずの二人の声が、完全に重なった。

 老人の顔が青くなる。


「ま、まさか……共闘……!?」


「共闘ではない」

 魔王が鼻で笑う。

「利害の一致だ」

 聖騎士が頷く。

「焼きたてを守るために」


 二人は老人を持ち上げ、店の外へ放り投げた。半径百メートル先——畑の上空で、老人は光の陣ごと“消えた”。いや、消えたように見えた。多分、どこか遠くの教会の物置に転送された。ルーカスは見なかったことにする。


「で」

 ルーカスは何事もなかったように窯の前に戻る。

「聖水が減った分は、誰が補充する」


 魔王が胸を張る。

「我が魔界の深層泉より、最高純度を献上しよう」

 聖騎士が一歩前へ。

「聖都の祝福された泉を提供します。浄化済みです」


 ミーナがぱちぱち拍手した。

「わー、供給ライン強化! これで新作いっぱい作れますね!」


 ルーカスは頭を抱えた。供給が増えれば、客も増える。隠居が遠のく。


 ちょうどそのとき、窯の中で皮が割れる音がした。

 パチッ。香りが立ち上る。塩パンの試作品が、黄金色に焼けている。


「……焼けた。会談は、今からだ」

 ルーカスが言うと、魔王と聖騎士は同時に背筋を正した。


「配布権を——」

「公平に——」


「静かに食え」

 ルーカスの一言で、二人は黙って席に着いた。


 かじる。

 パリッ、と音が鳴る。


 魔王が震えた。

「この塩……戦場の涙より尊い……!」

 聖騎士も震えた。

「これは……信仰の味……!」


「食レポ禁止。冷める」


 ミーナが小声でささやく。

「ルーカスさん、胃薬、二倍でいいですか?」

「……頼む」


 こうしてベーカリー・エデンの朝は、また一日だけ世界を平和にした。

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