第19話 世界パン会談と、ちぎりパンの中立地
禁味結界の翌日。
ベーカリー・エデンの前は、行列ではなく——陣地になっていた。
村の入口に旗が立つ。聖都の紋章、魔界の黒旗、竜の谷の鱗紋、中立商都の紋章、そして禁魔庁の銀の徽章。
武装解除? 私服? 行列?
守られている。守られているが、人数が常識を超えている。
「……増えすぎだ」
ルーカスは白い粉のついた手で額を押さえた。
禁味庁が香りと味を奪った——その噂が広がり、各陣営が「放置すれば自陣営の兵の士気が死ぬ」と気づいたのだ。
結局、戦争は“味”で止まっていた。最悪。
ミーナが回覧板を抱え、顔色を変えて走ってくる。
「ルーカスさん! 村長が“会談を店でやれ”って!」
「やらない」
「やるんです! もう村の広場に机並んでます!」
「店で政治をするな」
「店の外です!」
「店の外でもするな!」
鈴。
魔王グラディオがいつもより早く入ってきて、低い声で言った。
「禁味庁が広がれば、我が軍は争う理由すら失う。……兵が荒れる」
鈴。
聖騎士セラフィナが真顔で頷く。
「香りは扇動ではありません。人が人であるためのものです」
鈴。
竜王がコートの襟を外し、鱗の気配を少しだけ見せた。
「余の国は“匂い”で季節を知る。奪われれば、谷が死ぬ」
鈴。
禁魔庁局長ユリウスは紙束を置く。
「禁味庁は新設だが、権限が強い。放置すれば禁魔庁も飲み込まれる」
「……うるさい。パンを焼く」
ルーカスは言い切った。
「会談は、焼き上がってからだ。冷める」
今日の新作は“ちぎりパン”。
大きな一つのパンを焼き、みんなでちぎって食べる。分ける前提のパン。配給にも、会談にも、嫌なほど向いている。
生地を仕込み、【天候操作】を最小限。禁味結界がまだ残っているか確かめるように、指先で空気を探る。
……薄い。昨日ほどではないが、香りが抜けている。禁味庁は村の外で結界を維持しているらしい。じわじわ、店の“外側”から殺してくる手だ。
ルーカスは窯の前で短く言った。
「……今日、店の半径百メートルは“中立”だ」
ミーナが目を丸くする。
「えっ、条例のやつ?」
「暗黙じゃ足りない。今日から“公式”にする」
外へ出ると、村の広場には長机が並び、各陣営の代表が座っていた。全員、私服だが目が戦場。禁味庁の巡察官もいる。無表情だ。
村長ボルドが咳払いする。
「本日、ここラスト・リゾートは“中立地”とする。争えば罰金。畑を壊せば追加徴収」
「金で止まるか」
誰かが笑った。
その瞬間、魔王と聖騎士と竜王が同時に立つ。
空気が凍る。
「止まる」
「止まります」
「余の前で畑は壊すな」
全員が座り直した。条例より怖い“常連”である。
禁味庁の巡察官が淡々と言う。
「香りは人を扇動する。争いを増やす」
聖騎士が即座に返す。
「香りがあるから、人は帰る場所を思い出せる」
魔王が鼻で笑う。
「香りがないなら、支配は簡単だ。……だから貴様は奪う」
竜王が低く言う。
「奪えば、心は乾く。乾いた心は燃える。争いは増える」
ユリウスが紙を叩く。
「禁味庁、権限の根拠を提示しろ」
巡察官は肩をすくめる。
「提示する必要はない。恐怖が根拠だ」
場が裂ける寸前、ミーナが鐘を鳴らした。
チリン、という音が広場に落ちる。
「焼き上がりましたー! ちぎりパン、焼き上がりましたー!」
ルーカスが大きなパンを運んでくる。
香りは薄い。それでも、焼き色と湯気は嘘をつかない。
「……ちぎれ」
ルーカスが言う。
「口に入れてから喋れ。冷める」
魔王がちぎる。聖騎士がちぎる。竜王がちぎる。禁魔庁局長がちぎる。村人がちぎる。禁味庁の巡察官も、渋々ちぎる。
同じパンをちぎるだけで、机の上の空気が少しだけ柔らかくなる。
巡察官が小さく眉を動かした。
「……味が、少しする」
「当然だ」
ルーカスは言った。
「焼きたては、奪えない」
そして、ルーカスは最後に条件を突きつける。
「この店から半径百メートル——いや、この村の“平和通り”は、世界の中立地だ。禁味結界をここに侵入させるな。侵入させたら——」
言葉を切り、静かに続けた。
「……外でやれ。いや、外でもやるな」
魔王が頷いた。聖騎士が頷いた。竜王が頷いた。ユリウスが条文を書き始めた。村長は税の項目を増やした。
禁味庁の巡察官だけが、黙って湯気を見ていた。
こうして“世界パン会談”は、ちぎりパン一つで始まってしまった。
ルーカスの隠居はまた遠のいたが——香りを奪われた世界が、初めて同じパンをちぎった日でもあった。




