第18話 禁味結界――香りが消える日
朝、ルーカスは卵とバターを机に並べた。今日の新作はブリオッシュ。香りで客の理性を溶かす、危険なパンだ。
「バターは三回に分けて入れる。温度は二十六・〇度……香りが立つ前に、生地を整える」
【天候操作】で湿度を整えようとして――指が止まった。空気が、妙に“軽い”。匂いが薄い。粉の匂いすら遠い。
鈴が鳴る。魔王グラディオ、聖騎士セラフィナ、竜王、禁魔庁局長ユリウス。いつもの面子が揃って入ってきた……が、全員が同時に眉をひそめた。
「……匂いが、ない」
「バターの気配がしません」
「余の鼻が死んだのか?」
「違う。結界だ」
ユリウスの視線が扉へ向く。そこに立っていたのは、灰色の法衣に無表情の男。胸の徽章には《禁味庁》の文字。
「禁味庁巡察官。香りと味による扇動を抑止する」
男が杖を床に置くと、空気が“すん”と沈んだ。魔力が消える禁魔とは違う。**味と香りだけ**が消える。焼きたての世界が、無音になる。
ミーナが青ざめた。
「えっ、じゃあ……パンの意味……」
「意味はある」ルーカスが言う前に、魔王が叫んだ。
「待て! 香りのない世界など、魔界より地獄だぞ!」
巡察官は淡々と札を出す。
「苦情が多い。貴店の香りが停戦交渉を乱す、と」
聖騎士が震える声で反論する。
「乱しているのは戦争です」
「ここは食の場です」
竜王が低く唸る。
「余の国の争いを、嗅覚で止めてきたのに」
「店で政治をするな」
ルーカスはそう言ってから――初めて、声が低く沈んだ。
「……だが、俺のパンを“無味”にするのは営業妨害だ」
巡察官が肩をすくめる。
「法律だ。協力しろ」
ルーカスは一歩、前へ出た。いつもの「粉が舞う」じゃない。もっと短い。
「出ていけ」
店内が静まり返る。魔王も聖騎士も竜王も、言葉を飲んだ。怒っているルーカスは、戦場より怖い。
それでも巡察官は動かない。結界は張られたまま。香りは戻らない。
ルーカスは深く息を吸い、ブリオッシュ生地に手を入れた。
「……香りがなくても、焼く。食感と温度で勝つ」
窯へ。焼き上がり。見た目は完璧な黄金色――なのに、店内は無臭だ。
魔王が一口かじり、顔色が変わる。
「……味が、しない……」
聖騎士も唇を噛む。
「これは……恐怖です」
竜王は小さく呟いた。
「平和が、枯れる音がする」
ルーカスは巡察官を見据えた。
「明日、取り返す。俺の店の“焼きたて”をな」
そして低く付け足す。
「……パンが冷める前に、な」




