第17話 天然酵母の“種”と、盗めない平和
朝、ルーカスは木桶の蓋を開け、鼻を近づけた。
酸味。甘み。ほんの少しのアルコール。生き物の匂い。
「……起きてるな」
桶の中には、灰色がかった泡立つ生地――天然酵母の“種”。
小麦と水を混ぜ、毎日かき混ぜ、温度と湿度と時間を相手に育てる。魔法で早回しはできる。できるが、それをやると“深み”が死ぬ。深みは、急げない。
ミーナが覗き込み、目を輝かせた。
「これが噂の“種”! なんか……ペットみたい!」
「噛みつくぞ」
「えっ」
「嘘だ。だが世話を怠ると機嫌が悪くなる」
本日の新作はサワードウ。外は硬く、内側はもっちり。酸味があるのに、後味が軽い。配給にも向くし、保存も利く。――つまり、また面倒が増える。
鈴。
魔王グラディオが入ってくるなり、桶を見た。
「それが……味の核か」
鈴。
聖騎士セラフィナも真顔で頷く。
「“種”は配布できません。育てる時間が必要です」
鈴。
竜王は鼻を鳴らす。
「生きている匂いだ。余の谷の発酵酒に似る」
鈴。
局長ユリウスはメモを取りながら言った。
「商会連盟の残党が動く可能性が高い。狙いはレシピではなく、これだ」
「予言するな。現実になる」
ルーカスは桶の蓋を閉め、鍵をかけた。……ただの鍵だ。レシピの鍵じゃない。
開店。三列は今日も機能している。配給列には昨夜からの避難民も増え、一般列には観光客が増え、村の列は村の列で「うちの分は確保されるよね?」と目が怖い。
パン屋は、今日も平和の最前線だ。最悪。
生地をこねていると、微かな違和感が走った。
空気が……軽い。湿度が一瞬、抜けた。誰かが意図的に風を流した?
ユリウスがすっと視線を上げる。
「……来た」
扉が静かに開いた。
村人の服を着た男。だが靴が新しい。目が落ち着かない。笑顔が薄い。
「おはようございます。今日は配給で……」
「列に並べ」
ミーナがにこやかに言い、男は素直に並んだ。並んだまま、視線だけが桶へ滑る。
その瞬間、店の奥の窓が“カツン”と鳴った。
小さな針。糸。細工師の仕事だ。
桶の鍵が、勝手に回りかける。
「……粉が舞う」
ルーカスが低く言った。
言葉の意味は違うが、空気が凍る。
魔王と聖騎士が同時に立ち上がり、竜王が椅子を引く。ユリウスは紙を閉じた。全員、狙いが桶だと理解した。
並んでいた男が舌打ちし、袖から細い器具を出した。鍵開け用の禁具。
「レシピを出さないなら……種をいただく。これがあれば、味は複製できる」
「できない」
ルーカスは即答した。
「育てられない」
「黙れ! 俺たちは“技術者”だ!」
男が桶へ跳ぶ。
ルーカスは【時間停止】を――使わなかった。
代わりに、桶の横に置いてあった小さな木べらを掴み、男の額に当てる。
「外でやれ」
デコピン一発。男は店外へ飛び、半径百メートルの外の空き地に“きれいに”着地した。畑は避けた。最近うまい。
しかし問題は残る。
男が狙ったのは鍵ではない。“種”そのものだ。今後、もっと巧妙な手が来る。
ミーナが不安そうに言った。
「これ、盗まれたら終わりですか?」
「終わらない」
ルーカスは桶を抱え、台の上に置いた。
「種は盗める。だが、種は“味”じゃない」
ルーカスは桶からほんの少しだけ取り、別の小瓶に移した。
魔王が眉を上げる。
「分けるのか」
「売るのか?」
聖騎士が身を乗り出す。
「配布権を――」
「違う」
ルーカスは瓶を見つめて言った。
「育て方を知ってる者がいないと、これは腐る」
ユリウスが静かに頷く。
「つまり、盗まれても“維持できない”。管理者が必要だ」
「そうだ」
ルーカスはミーナに瓶を渡した。
「お前が世話を覚えろ。店が俺一人の手から離れれば、奪われても終わらない」
ミーナが目を丸くする。
「えっ、私!? ……え、えっと、ペット係……?」
「店係だ」
竜王が小さく笑う。
「育てる者が増えれば、奪う価値は減る」
魔王も頷いた。
「独占できぬ平和か。気に入らんが……悪くない」
聖騎士は真顔で言う。
「公平です」
「店で政治をするな」
ルーカスは焼き上がったサワードウを棚に並べながら言った。
「……冷める」
ミーナは瓶を胸に抱え、緊張した顔で頷いた。
その小さな泡は、まだ弱い。だが確かに生きている。
――奪えない平和は、焼き上げる前から育ち始めていた。




