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最強の魔導師だった俺、隠居して辺境でパン屋を開く~なぜか伝説の魔王や聖騎士が常連客になってしまい、のんびりできない件について~  作者: 綾瀬蒼
(1)章

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第16話 揚げたての後始末と、配給の三列

 揚げたてカレーパンの翌朝。

 ベーカリー・エデンの前には、見慣れない行列ができていた。


 村人の列。観光客の列。――そして、疲れた顔の列。

 毛布を肩に掛けた母親、包帯を巻いた少年、目だけがぎらついた兵士。誰も武器は持っていない。条例のおかげだ。だが腹の鳴る音だけは、禁止できない。


「……増えたな」


 ルーカスは窓から外を見て、胃の辺りを押さえた。

 昨日の“焼き印で国境が抜けられる”という噂が、止まっていない。誰かが善意で広め、誰かが悪意で利用し、結果として——この店に辿り着く。


 ミーナが回覧板の紙をぱたぱたさせる。

「村の人も困ってます! 行列が混ざって、昨日“順番抜かし”で一触即発でした!」

「戦争より危険な単語だな。順番抜かし」


 そこへ鈴。

 魔王グラディオが入ってきて、外の列を見て眉をひそめた。

「……腹を空かせた群れは厄介だ。飢えは剣より速い」

 次に聖騎士セラフィナ。

「配給が必要です。ですが、ここは店……」

 竜王は窓の外を見て、低く唸る。

「余の谷でも、腹が減ると争いが起きる。味の前に、生存だ」

 最後に禁魔庁局長ユリウス。紙を一枚、無言で差し出した。

《営業妨害発生時の対応案》

 やる気があるのが腹立つ。


「……今日の新作は?」

 ミーナが聞く。

 ルーカスは答えた。


「スープとパンだ」


 大鍋に玉ねぎと芋を入れ、弱火で煮る。牛乳は入れない。香りで煽ると余計に荒れる。代わりに塩を少し、胡椒をほんの僅か。

 パンは小さな丸パン。手のひらサイズで、ちぎって浸せるやつ。配るにも向く。


 【天候操作】で湿度を整える……前に、ルーカスは外へ出た。

 開店前の行列へ向かい、短く言う。


「……列は一つじゃない」


 ざわ、と空気が動く。兵士の目が光り、観光客が不満げに眉を上げる。

 ミーナがすかさず大声で続けた。


「本日から“三列”です! はい、こっちに札を置きまーす!」


 店先に立て札が三枚。


《村の列》

《一般の列》

《配給の列》


「配給……?」

 観光客が鼻を鳴らす。

「俺たちは金を払うんだぞ!」

 兵士が苛立つ。

「配給が先なら、俺たちは――」


 ルーカスは目を細めた。

「粉が舞うぞ」

 それだけで、全員が一歩引いた。怖いのは拳じゃない。焼きたてが終わることだと学習している。


 ミーナが説明する。

「配給の列は“少量だけど必ず渡す”列! お腹が空いてる人優先です。でもね、一般の列も、村の列も、ちゃんと進みます!」

 村長ボルドが腕を組んで頷いた。

「配給は村の予算から買い上げる。税金の使い道として正しい」


「村長がまともなこと言ってる……」

 ミーナが震えた。

「怖いですね」

「怖い」


 そこへ、問題の“順番抜かし”が早速出る。

 鎧を脱いだ兵士が、一般列から配給列へ肩で割り込もうとした。


「俺は前線帰りだ。腹が減ってる」

「みんな腹が減ってる」

 隣の母親が小さく言う。

 兵士の顔が歪む。


 その瞬間、魔王と聖騎士が同時に前へ出た。


「列は守れ」

「この店の秩序は守ります」


 竜王が静かに背を伸ばすだけで、空気が凍る。ユリウスは紙に何か書き始めた。罰金の準備だ。


「……外でやれ」

 ルーカスが言った。

「いや、外でもやるな。並べ」


 兵士は唇を噛み、結局、列の最後尾へ戻った。

 拳を振るわずに収まるのは、ここが聖域だからではない。

 焼きたてが欲しいからだ。


 そして開店。

 ミーナが鐘を鳴らす。


「本日の配給! スープとちぎりパン! こちらの列から順番にどうぞー!」


 ルーカスは鍋からスープを注ぎ、小さなパンを添える。

 湯気が立ち、塩の匂いが静かに鼻を撫でる。派手じゃない。だが、体に入ると肩が下がる味だ。


 配給列の母親が受け取り、子どもに渡す。

 子どもがちぎって浸し、頬を膨らませた。


「……あったかい」


 その一言で、列全体の空気が少しだけ柔らかくなる。

 観光客も、兵士も、竜王も、魔王も、聖騎士も——同じ“湯気”を見て、同じ速度で息を吐いた。


 魔王がぼそりと言う。

「腹が満ちれば、戦う理由が一つ減る」

 聖騎士が頷く。

「公平な列は、平和の基礎です」

「店で政治をするな」

 ルーカスは即座に返す。

「……冷める」


 ミーナが小声で言った。

「ルーカスさん、三列、うまく回ってますね」

「今日だけだ。明日はまた増える」


 だが、少なくとも今日のベーカリー・エデンは、争いより先にスープを配った。

 焼きたてのためのルールが、少しだけ世界を支えてしまった。

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