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最強の魔導師だった俺、隠居して辺境でパン屋を開く~なぜか伝説の魔王や聖騎士が常連客になってしまい、のんびりできない件について~  作者: 綾瀬蒼
(1)章

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第12話 回覧板と、村を一周する“シナモンロール”

 朝、ミーナが息を切らして戻ってきた。腕には回覧板。村のそれだ。

「ルーカスさーん! 村の会議で決まりました! “観光名物”にしますって!」

「何を」

「ベーカリー・エデンを!」


 ルーカスは一瞬、時間を止めたくなったが、我慢した。止めても現実は戻ってくる。胃痛も戻ってくる。


 回覧板の最初のページには大きく書かれている。

《ラスト・リゾート村 観光振興案》

・パン屋周辺を“平和通り”として整備

・行列スペースを拡張(屋根付き)

・記念スタンプ設置

・名物:焼きたてシナモンロール


「……最後のやつが一番悪い」

「えっ、最高じゃないですか! 甘いの、村人みんな好きだし!」

「好きなものほど、争いになる」


 だが、もう決まったらしい。村長ボルドが店に入ってきて、淡々と言う。

「観光客が増える。宿が埋まる。税が増える。以上」

「俺の平穏が減る」

「それは知らん。回覧板に判を押せ」


 ルーカスは渋々、判を押した。瞬間、外で鐘が鳴る。誰が鳴らした。勝手に祝うな。


 今日の仕込みはシナモンロール。

 柔らかい生地を伸ばし、バターを塗り、シナモンと砂糖を撒いて、くるくる巻く。最後に切り分け、型に並べる。

 ここで魔法を使えば簡単だ。発酵も湿度も温度も、全部思い通り。だが、今日は“村の名物”になる。失敗できない。失敗したら、村会議が荒れる。世界より面倒だ。


「……湿度五十六。温度二百。発酵は……」


 ルーカスは【天候操作】を最小限だけ使った。ほんの少し、空気を柔らかくする程度。

 【時間停止】は使わない。名物は“今この瞬間”に食べてもらうものだ。保存してはいけない。


 鈴が鳴る。

 魔王グラディオ。聖騎士セラフィナ。竜王。禁魔庁局長ユリウス。最近の常連が揃うのは、もはや予定調和である。


「名物と聞いた」

「村の観光政策ですか」

「余の谷にも名物がある」

「監査も兼ねる」


「昼に来るな」

「朝です」

「……朝か」


 さらに、今日は村人の顔ぶれが違った。回覧板が回ったせいで、普段来ない家の人まで並んでいる。

 そして行列の端に、見慣れない“旅行者”がいる。服装は普通だが、目がギラギラしている。


「……これが噂の平和パン屋か」

「ここで停戦が買えるって本当か」

「名物を土産にすれば、王に取り入れる」


 やめろ。パンは政治じゃない。

 ルーカスがそう言いたい時ほど、事件が来る。


 旅行者の一人が、袖から小瓶を落とした。割れる。床に透明な液体。

 匂いがない――が、空気が乾く。瞬間、店内の湿度が奪われる。発酵中の生地が、ぷしゅ、と萎みかけた。


「禁湿剤……?」

 ミーナが青ざめる。

「これ、パン屋潰しのやつ!」


 旅行者が笑った。

「名物なら、俺たちの街にも欲しい。ここを潰して、職人を連れて帰る」


 魔王が唸る。

「……貴様」

 聖騎士が前へ。

「条例違反です」

 局長が紙を出す。

「営業妨害罪も追加だ」


「粉が舞う」

 ルーカスが言った。

「外でやれ。……いや、外でもやるな」


 ルーカスは【天候操作】で店内に湿り気を戻す。同時に、床の禁湿剤を“聖水(魔水)”で流した。高純度の水が薬剤を薄め、効力を消す。

 旅行者が焦ってもう一本取り出す——が、その手首をミーナが笑顔で掴んだ。


「お客さま、持ち込みはご遠慮くださーい」

「なっ、離せ!」

「離しません。だって、粉が舞うので」


 ミーナの言い方が、最近ルーカスに似てきている。悪い傾向だ。


 結局、旅行者たちは常連たちに“静かに”店外へ連行され、半径百メートルの外で説教を受けた。説教の内容はほとんど「焼きたての邪魔をするな」である。法より怖い。


 その間に、窯が鳴いた。

 甘い香りが店を満たす。シナモンとバターと砂糖が溶け、渦巻きがきらめく。


「……焼けた」


 ルーカスが取り出すと、村人の目が一斉に輝いた。

 魔王も聖騎士も竜王も局長も、同じ速度で唾を飲み込んだ。怖い。


 ミーナが鐘を鳴らす。

「名物シナモンロール、焼き上がりましたー! 回覧板回した人から順番にどうぞー!」


 行列が、驚くほど静かに動く。

 誰も争わない。渦巻きの前では、皆が噛むことに集中する。


 かじれば、ふわっと柔らかい。中から甘い香りが広がり、舌の上でバターがほどける。

 村の外から来た者たちも、黙って咀嚼した。


 村長ボルドが小さく頷く。

「……名物にして正解だな」

「最悪だ」

 ルーカスは真顔で言った。

「客が増える」


 だが、増えた客が静かに噛むなら——まだ、耐えられる。

 ルーカスは次の天板に生地を並べ、回覧板の判を押した指を見つめた。


 この村の回覧板は、今日も一周する。

 そしてそのたびに、シナモンの渦が世界の争いを一段だけほどく。

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