第1話 禁忌の焔は焦げ目のために
魔界と人間界の境界線近く、辺境の村ラスト・リゾート。
朝の霧の中で、やけに堂々と主張するものがある。パンの香りだ。
「ベーカリー・エデン、本日も開店」
店主ルーカスは石窯の前で腕を組んだ。かつて“終焉の魔導師”と呼ばれ、魔王軍を一人で押し戻した——その手が今握っているのは剣ではない。木べらと温度計だ。
指先に灯る【禁忌の業火】。ただし出力は千分の一固定。石窯の温度を〇・一度単位で上下させる。
世界を救うより、目の前のパンをふっくら焼く方が難しい。ルーカスは本気でそう思っていた。
「……あと〇・二度。ここで甘えると皮が怒る」
生地は昨夜から仕込んだ。粉と塩と水、そして“聖水”——高純度の魔水をほんの少し。常連が勝手にそう呼び始めただけで、ただの魔水である。
発酵が頂点に達する、その瞬間。
「止まれ」
【時間停止】が静かに降りる。生地は最も美しい膨らみのまま凍りつき、空気の泡も、香りも、すべてが“最高のまま”保存される。
停止を解除し、窯へ。仕上げに【天候操作】で店内湿度を整え、蒸気の代わりに魔水を霧状にひと吹き。
パチ、と皮が割れる未来が見えた。
そのとき、扉の鈴が鳴った。
入ってきたのは、黒い外套の男。私服のはずなのに、空気だけは戦場のまま。帽子の下で角が主張している。
「……ルーカスよ」
「列に並べ。武装解除は?」
「……はい」
男は腰の大剣を入口の木箱に丁寧に預け、素直に最後尾へ向かった。
伝説の魔王グラディオ。世界を震え上がらせる魔界の王が、今は“焼きたて待ち”の客である。
続いて、もう一度鈴。
白いコートの女性が入ってくる。背筋が矢のように真っ直ぐで、視線は鋭い——のに、店内に漂うバターの香りで一瞬だけ頬が緩んだ。
「本日のクロワッサン、残っていますか」
「残しておく。……戦闘はするなよ」
「心得ています。この店から半径百メートル以内は戦闘禁止。聖域です」
聖騎士セラフィナ。魔王の宿敵。
その二人が同じ行列に並び、同じ棚を凝視している。世界の理が歪んで見えるが、ここではそれが日常だった。
会計台の横で、看板娘ミーナがにこやかに札を整える。
「おはようございます! 魔王さま、今日も帽子の角、出てますよー」
「角ではない。……飾りだ」
「はいはい、飾り飾り。列は守ってくださいねー」
魔王が素直に一歩下がる。聖騎士が「良い心がけです」と頷く。
ルーカスは胃のあたりを押さえた。俺は何を見せられているんだ。
そんな平和を、空気を読まない者が蹴り飛ばす。
ドン! 扉が蹴り開かれた。
「魔王がこの村に潜伏していると聞いた! 討伐だぁぁぁ!」
ピカピカの剣を掲げた少年が飛び込んでくる。新米勇者カイル。
勢いのまま店内へ踏み込み、粉の入った袋にぶつかり——白い雪崩が舞った。
「うわっ……!」
ミーナが悲鳴を上げる。粉は焼き上がりの敵だ。湿度が狂う。生地が泣く。
ルーカスのこめかみに青筋が浮いた。
「……粉が舞うから、外でやれ」
「は? ただのパン屋が偉そうに——」
次の瞬間、ルーカスはカイルの額に指を当てた。
デコピン。
たったそれだけ。
衝撃が礼儀正しく店外へ運ばれ、カイルは百メートル先の畑に一直線に刺さった。
風のように静かに、世界が元に戻る。
店内の全員が、何事もなかったかのように呼吸を再開した。
「……で、魔王。注文は?」
魔王グラディオは震える声で言う。
「この……この香り。皮の割れ方。もしや伝説の聖遺物か!? バゲットという名の……神器!」
「ただのバゲットだ。銀貨三枚」
聖騎士セラフィナは真顔でクロワッサンを受け取り、ひと口かじった瞬間、瞳が潤んだ。
「層が……層が……。これは……神の幾何学……」
「食レポ禁止。冷める」
ミーナが笑顔で小声を添える。
「ルーカスさん、今日も胃薬、飲みます?」
「後でいい」
その後、畑から「すみませーん!」という情けない声が聞こえたが、誰も気にしない。
パンが焼ける音の方が大事だからだ。
魔王と聖騎士は、戦場では交わらぬはずの視線を、同じ方向へ向ける。焼きたての棚へ。
「……新作はいつだ」
「新作が出たら会談を開きましょう。配布権は公平に」
「店で政治をするな。パンが冷める」
ルーカスがそう言うと、二人は不満げに黙り、ただ黙々と噛んだ。
サクッ、と皮が割れ、香りが広がる。
世界は、今日も一日だけ平和になった。
「……やっぱりここのクロワッサンが一番だな」
魔王のぼそりで、ベーカリー・エデンの朝は締まった。




