星を探す猫 前日譚
【1】空を眺める猫
本格的な冬が来る前の風が徐々に冷たくなり始める頃、その猫はよく、古いアパートの屋根の上で丸くなって眠っていた。
その猫は名前も飼い主もなく、ただ街の片隅で一匹で静かに暮らしていた。
お腹から顎にかけて白く、それ以外は夜のように黒い、身体は小さく、少し痩せてはいるが、黄金色の目だけは妙に澄んでいて、風の中に漂う“何か”を感じとるのが得意な猫だった。
いつも夜空を見上げ、そこにある輝く星をを風を受けながらじっと眺めるのが好きだった。
それなのに猫は星を知らない。
それが食べ物ならいいなって思ってはいるが、食べ物じゃないことだけはなんとなくわかっている。だが結局それが何なのか知らない。
ただ、そのキラキラを観ていると不思議と胸が温まることだけは知っていた。
猫にとっては、それだけで十分だった。
【2】死神と猫
ある夜も猫は屋根の上で風の向こう側を見上げている。
猫の後ろに、揺れる影がひとつ現れた。
現れたのは、フラウロス、猫の魂を空に帰す使命を受けたた死神である。
死神にとって、この猫の魂もまた数ある内の一つにすぎない。
だが、その魂の灯は小さく近いうちには消えるにもかかわらず、不思議なことに、とても美しく希望に満ち溢れていた。
まるで何かを待ち、ワクワクするような何かを探しているような気がする。
そんな静かで淡い期待が、魂の深淵で揺れている。
気づけば私は、その猫に近づいていた。
猫はその気配を拾う。
影として存在する私に気づく者はそういないが、猫は怯えることもなく、まず私の匂いを嗅ぎ、そして小さく首を傾けて私を見つめてきた。
「……私が見えるのか」
猫は尻尾をひと振りし、「にゃあ」と鳴く。
肯定とも否定ともどちらにも取れる返事だったが、ただ、その声は柔らかくて、優しい、普段の死神に向けられるはずの冷たさは、どこにもなかった。
死神に向けられるのはいつも恐れと拒絶、ほとんどの者は逃げるか腰が抜けて動けないのどちらかだ。
それでもこの猫は、ここに私が傍にいることを受け入れてくれた。
【3】星は、どんな匂いがする?
猫は静かに夜を見上げながら、クンクンと何かを嗅いでいる。
その仕草を見て、私はふと気づいた。
ひょっとしてこの猫は星の匂いを追いかけているんじゃないかと。
「お前はいつも星の匂いを嗅いでいるが……まさかこの夜空に探している星があるのか?」
私は天を指し問いかけると、猫の魂がかすかに揺らぐ。
その揺らぎは言葉となって私に届いた。
——星って何?僕はね一番キラキラしてるのをずっと探しているんだよ。ねぇ、その星は、どんな匂いがするの?
魂の声だった。
猫自身は話せなくても、魂は私と語ることができる。
私はその返答に少しだけ驚いたが平静を装った。
星が何かもわかっていない小さな命が、こんなに真っ直ぐに空への憧れを持ってているとは。
「星は……匂わないよ。だけど、その光には温もりがある」
私がそう答えると、猫の魂は小さく喜びを返した。
夜風が、猫の毛をそっと撫でた。
【4】死神と猫の散歩
それから、私は猫にときおり寄り添うようになった。
本当は死神が特定の命に干渉するの禁忌とされているが、私は、どうしてもこの猫の行く末を見てみたい。
夜ごと、猫は街を歩き、たまに足を止めては星を見る。
猫はまだ星を知らないが、いつも夜の空を彩り、いつどの場所から見ても飽きることがないほど好きだと言う、私が何故かと問うとそのキラキラがあれば、どんな時でも自分が一匹ではないと教えてくれるからだと答えた。
そんな猫にますます惹かれ、いつもその後ろを私は影としてついていった。
その間、猫の歩む先で、私はいくつもの魂を拾った、そのつど猫は振り返り見つめてきた。
まるで「それはどこへ行くの?」と聞くように。
私はその問いに答えず、ただ魂を送った。
猫はその様子を怖がるでもなく、ただ静かに温かくその魂を見守っていた。
「……お前は、優しい子だね」
猫は「ウニャ」と鳴き私の声に首をかしげた。
【5】キラキラを無くした青年
冬が深まり始めた頃、猫はある人間の男をよく見かけるようになった。
事故で視力を失い、部屋の灯も閉ざした青年、晴。
昔、夜の公園でよく出会ったその青年を猫はただ見つめていた。
星をずっと追いかけ続けていた魂が、今では暗い水の底で沈んでいる。
猫は気づく。
——この子は、夜空をなくしたんだ。
そのとき、猫の魂の灯が大きく揺れた。
「……お前は、あの青年に興味があるのかい?」
猫の魂が明確に答えた。
——あの子に、キラキラを返したい。
私は言葉を失った。
痩せ細った小さな命が、誰かの心を照らそうとしている。
それは死神の私には理解できない“温かさ”というものだった。
【6】猫の決意、死神の約束
私は猫に言った。
「お前の魂は弱り始めている。その体では長く……」
私がそう告げる前に、猫は振り返り、迷いなく魂を震わせた。
——それでも、僕は行くよ。
誰にも頼まれず。
誰にも必要とされず。
それでも猫は青年のそばへ行こうと決めていた。
「……ならば、私は見守ろう。お前が終わるその日まで」
猫は短く鳴いて、まるで礼を言うように私の目を見据えていた。
振り返り歩き出すその背中があまりにも希望に満ちていた、私はその背中をただ見守った。
小さな灯が、夜の中をまっすぐに力強く歩く姿を。
その行き先が、青年の失われた星へ続いていることを、猫も私もまだ知らない。
【7】出会いの前夜
冬のある夜。
猫は晴の家の前まで来た。
まだ晴に声もかけず、ただ玄関の匂いを嗅いでるだけの猫を影の中で、私は息を潜めて見ていた。
猫は風の匂いを嗅ぎ。
夜空をちらりと見上げ。
やがて小さく鳴いた。
——明日、行くよ。
弱った身体をふらつかせながらも、猫は決意を固めていた。
私は静かに答える。
「私は、お前が選ぶ道に干渉はしない。ただ……その願いが届くように祈ろう」
私がそう呟くと猫は私の方を見た。
その視線は柔らかく、温かい。
——ありがとう。
私は、その一言を、魂から確かに受け取った。
その夜、猫と私は静かに星を眺めた。
そして翌晩、晴の玄関で出会う。
小さな命が星へつないだ道は、ここから始まっていた。
〈前日譚・完〉




