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星を探す猫

【一】 失われた星


 夜が訪れるたび、はるの胸はギュッと締めつけられていた。


 一年三カ月前のある夜、いつものように天体望遠鏡を持って近所の公園の小高い丘へ星を見に行った帰り道に交通事故に遭った。かろうじて一命を取り留めたがそのかわりに視力を失った。


 かつては天体望遠鏡で星を探し、手を伸ばしても届かない淡い光を夢中で追いかけていた、その後も大学で天文学を学び、一生、星の研究をしていきたいと思っていた。


 だが今の晴は、もう夜の色すら分からない。


(僕の星はもう二度と輝かない)


 視力を失った日から晴はそう思い続けていた。


 ある日の夜、白杖を握りしめ、玄関の扉の前に立ち、空気をゆっくりと吸い込み、扉のドアノブに手を掛ける。


 扉を開けるだけで外に出るつもりはなかった。


 ただ、夜の風に頬を撫でられるだけでいい、自分が見えなくなっただけで「この世界はまだ変わらずある、それだけにこの暗闇の世界でも生き続けなくてはいけない」と実感したかっただけだった。


 しかし、晴にとってとても重い玄関の扉を開けたその時、ふわりと足元に柔らかいものがぶつかってきた。


「うわっ……なんだ?」


 目の見えない晴は一瞬たじろいだが非常に軽い衝撃、喉を鳴らす振動、その物体が猫だとすぐに分かった。


「猫?どこから来たんだ、おまえ……」


 しゃがむと、猫は晴の膝に何度も頭をこすりつける。


 夜の冷たい外気のせいで、猫の柔らかい毛は冷たくもその内にある体温は息を呑むほど温かく優しかった。


 猫は晴の手を舐めると、ひょいと向き直って歩き出す、そして少し進んでは振り返り、短く鳴く。


——ついてこい。


 晴には、そう言っているように聞こえる。


「……外は、まだ怖いんだよ」


 そう呟きながらも、晴は耳を澄まし猫の足音と小さい鳴き声を追って白杖を頼りにゆっくりと歩き出した。


 その時、猫と晴の後ろを、夜の影のような存在が静かに見守りついてきていることを晴は知る由もない。


 なぜならそれは、猫の魂の揺らぎに呼ばれ、そっと姿を現した、人には見ることはできない存在、死神フラウロスだった。


「……星を失った青年か」


 影の声は風に溶けた。


【二】 星の匂いがする丘


 猫に連れてこられたのは、家からさほど遠くない公園の中の小さな丘だった。


 晴は視えてはいないが、事故前、何度も訪れたことのある場所であると歩いた道程や乾いた空気の広がりで十分理解していた。


 かつて大学の仲間たちと星を観測し夢を語り合っていた場所。


 猫が晴の足元で喉を鳴らす。


「……どうして、ここに?」


 晴は不思議そうに猫を覗き込むがもちろん答えはない、ただ静かに寄り添うのみ。


 静かに時間が流れていく中で、晴は何も映らない目を瞼で閉じ、懐かしい夜の丘の匂い、音、風が撫でる皮膚でこの空間を感じている。そして記憶と胸の奥で夜空をゆっくり探した。


(この丘で昔見た星は、今も変わらず空に輝いているのかもしれない)


 猫が晴の足に頬をグリグリ押し当てる。「思い出しなよ」と背中を押すように。


「……ありがとう」


 震える声で自分勝手な解釈であるとわかりながらも晴はこの猫に感謝した。


 それを遠くで見ていた、影のフラウロスが小さく呟いた。


「……お前は、本当にこの青年に星を返せるつもりなんだね、叶わぬ願いとは思うが約束通り最後まで君達を支え、祈らせてもらうよ」


 影は、風とともに消えた。


【三】 冬の気配


 それから猫は毎晩同じ時間に、晴の家の玄関先に迎えに来た。


 晴は猫と歩きながら、夜の静寂の中の、木々のざわめき、夜の匂い、視覚以外の感覚でこの世界の輪郭を思い出していた。


 外の世界への恐怖心は次第に薄れていき、今ではこの猫の存在が晴の支えになっていた。


「おまえのおかげで……ここまで歩けるようになったよ」


「そういや、いつまでもおまえじゃ失礼だよな、もう友だちなのに……」


 晴は優しく猫の背を撫でながら考える。


「うーん、そうだ、おうし座のアルデバランのアルだ、猫だけど牛のように力強くここまで僕を運んでくれた、今からアルだよおまえは」


 猫は嬉しそうに喉をゴロゴロ鳴らし、晴の足元で丸くなる。


 その光景を、少し離れた場所から静かに見守るフラウロスの影があった。


 フラウロスの目には、猫の魂の灯火が小さく淡く映っている。


「……さらに弱っている、もう寿命は長くないな」


 神でも死神には猫を救うことはできない。死神には、与えられた役目の猫の魂を空に送るだけしかできないが、ただそれでも、見守ることはできる。


「その青年も、あの猫も。いま星を必死に探している……君たちがどこに辿り着くか最後まで見させてもらうよ」


 フラウロスは影の中で目を閉じた。


【四】 消えた足音


 深夜からチラホラ雪が降った日の朝、アルは来なかった。


一日。

二日。

三日——。


 晴は毎晩、冷たい風が頬を冷やす中、玄関の扉を開けで耳を澄ませていた。


 しかし、あの軽い足音と優しい声は戻らない。


「……アル、何かあったのか」


 アルと歩いた路地を、晴は白杖を持って必死に探し続けた。


 同じ道を何度も、何度も。


 アルの温もりが恋しくて恋しくて、胸が裂かれるような気持ちだった。


 そして初めて一人で丘へ辿り着いた夜は、雪が風に舞いその雪が晴の体で散る音とその風の音だけしか聞こえない世界だった。


「どこに行ったんだよ……」


 晴は膝から崩れ落ち、地面に手をつくと非情な雪の冷たさが容赦なく彼の指を刺す。


「……ありがとうなんて、まだ……言えてないじゃないか」


 喉がふるえ、涙が零れた。


 後ろで、フラウロスが静かに目を伏せる。


「……これが君たちの結末なのかい」


 彼には、猫の魂の灯りが消えているのが分かっていた。


【五】 小さな遺された匂い


 数日後。


 晴は家の前の花壇で、かすかに憶えのある優しい匂いを感じとった。


 忘れるわけがないアルの匂いだ。


 それは風に消えかけている。


 晴は花壇の前で膝をつく。


「……ここで、眠っていたのか」


 誰にも看取られることもなく、晴の玄関のそばで。


 胸が締めつけられた。


「最後まで……僕をあの丘に連れてってくれようとしたのか、アル」


 涙の雫が手の甲にいくつも落ちた。


 その後ろで、フラウロスは静かにそして大切そうに猫の魂を抱いている。


 淡い光が揺れていた。


「……お前は最期までよく歩いたね」


 猫の魂は、小さく頷くように光った。


――晴を、星へ戻したかったの。あの子の夜空は、もう一度必ず輝くはずだから。


 その声は、光の震えと共にフラウロスに届いた。


【六】 星へ向かう音


 アルがいなくなっても、その残したものは晴の中で小さく生きていた。


 晴は星振学を必死に勉強し、星の光を“音”として読み取る研究を始めた。


 宇宙望遠鏡から蓄積したデータを音に変換する可聴化という技術である。


 星を自分の目で視ることはもう二度とない、それは変えようのない事実だ。


 それならなら聴けばいい、あの空に星があるかぎり。


 晴の中で、見えていた時のように星が形を作り始める。


 ある夜、小さかったが初めて星の規則的なリズムを音で感じた。


 それは、アルの喉を鳴らす音によく似ていた。


「……聞こえるよ。君の声が」


 その瞬間、フラウロスは晴の傍らで微笑んだ。


「猫よ……お前の願いは叶ったよ。彼はとうとう星を見つけた。目ではない、心でだ」


 猫の魂の光が、ふわりと揺れた。


【七】 丘の上の再会


 春の夜。


 晴は久しぶりにあの丘へ向かった。


 草木や土の匂い。優しい風。そして、夜空の広さ。


 すべてが、変わらずそこにあった。


「……星の音が聞こえるんだ。ここに居るよって。時間はかかったけどやっと、この場所に戻れたよ」


 風が晴の足元をかすめるように触る。


 まるで、猫の尻尾がそっと触れたように。


「……来てくれたのか?」


 返事はない。


 だが晴には分かっていた。


 アルはもう、星になっているのだと。


 晴が空を仰ぐと、ひとつの星が強く瞬いていた。


「ありがとう……」


 夜風に溶けるように、晴は微笑んだ。


【終章】 死神の手


 猫の魂は小さな星の欠片のように揺れていた。


 フラウロスはそれを両手に優しく包み、穏やかに夜空を見上げる。


「……お前の役目は終わったよ。本当によくやったね」


 魂はふわりと答えるように震えた。


――晴が星の声を聴いてくれたんだ。これで、僕は安心していける。


「そうだね、安心していいよ。あの少年は、もう二度とこの空を恐れないはずだ」


 フラウロスは魂をそっと放した。


 光は夜空へ昇っていき、星がひとつ増えた。


 晴がその星を見ることはないだろう。


 しかし、いつかその音を必ず聴いてくれるはずだ。


 その時、風が通り抜け、夜空のどこかで、猫の声がした気がした。


「星を探す猫よ……お前の灯した小さな光は、彼の中で永遠に消えることはない」


 フラウロスは影の中へと戻っていく。


 次の猫の魂を迎えに行くために。


 静かに、優しく。そしてどこまでも孤独に。


 しかし今夜だけは、胸の淡い温かさが孤独を少し埋めてくれていた。


――あの猫、アルが残した、星の音のおかげで。


〈完〉


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