噂と賞賛
山の門が叩かれたのは、朝の霧がまだ晴れきらぬ時間だった。
いつものように掃除をしていたフォリアは、珍しい音に首をかしげた。
この場所を知る者など、ほとんどいない。来客など、旅人を除けば一度もなかったのに。
「……誰でしょう」
フォリアが門へ向かうと、扉の向こうに数人の騎士が立っていた。
中心に立つのは、整った服装に銀のブローチをつけた若者――
「王国第二王子、ルカ殿下の使いとして参上しました。私はクラウス・フェリートと申します」
「……王国の、使い……?」
一瞬、時が止まった。
ついこの前まで、冷たく切り捨てられた記憶が胸を刺す。
けれど、顔には出さずに、フォリアは丁寧に頭を下げた。
「ようこそ。……こんな辺境まで、わざわざ」
「本日は、殿下からの感謝の言葉を伝えるために参りました。先日、王都で発生した疫病が、北の風によって沈静化した件――」
騎士はそう言って、胸元から書簡を取り出す。
封蝋には確かに、王家の紋章。
「人々はそれを“北の祝福”と呼んでいます。そして、その祝福をもたらした存在が、“竜と暮らす緑玉の瞳の聖女”だと」
フォリアは目を伏せた。
(また、“聖女”……)
「いえ。わたしは、何もしていません。ただ、ここで暮らしているだけです」
そう言ったフォリアの声は静かだった。
けれどクラウスは、一歩も引かない。
「民は信じています。噂の真偽は問題ではありません。“希望”は常に、人の心の中にあるものです」
その言葉に、フォリアは言葉を失った。
「……それでも、わたしにできることなんて」
「ございます」
クラウスの声が、真っ直ぐに響いた。
「あなたがここにいるだけで、人々の間には平穏が広がる。たとえそれが誤解だとしても、それが救いになるのです」
***
その夜。
使者たちは山城の一室に泊まることになり、グラヴェルとの対面は避けられた。
フォリアは居室の窓から、沈む夕日を見ながらワインをすすっていた。
「……なんだか、不思議ですね」
横で本を読んでいたグラヴェルが、ページをめくる手を止める。
「何が」
「数ヶ月前まで、わたしはただの“失敗作の令嬢”だったのに……今では、“竜を従える聖女”だって」
フォリアの声に皮肉はなかった。ただ、少し、微笑んでいるだけ。
「でも、あなたがここにいてくれるから。……だから、わたしは笑っていられるのかもしれません」
グラヴェルは、しばらく何も言わなかった。
だが、やがて本を閉じると、ゆっくりとした口調で言った。
「……“従えている”という言葉は、気に入らないな」
「え?」
「私はお前のものではないし、お前も私のものではない。だが――」
少しだけ目を伏せてから、言葉を継ぐ。
「お前が望むなら、隣にいることはできる」
その言葉に、フォリアは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
「……ありがとう」
それ以上、何も言えなかった。
けれど、グラヴェルは黙ってワインを注ぎ直してくれた。
それが、今の彼なりの精一杯の言葉だったのだと思う。
***
翌朝、使者の一行は山を下りていった。
クラウスは去り際に、もう一度フォリアを振り返った。
「……この風景、きっと忘れません。あなたがここに在るというだけで、世界はほんの少し、優しくなっている気がします」
フォリアは何も言わず、ただ微笑んで応えた。
彼が去ったあと、グラヴェルがぼそりと呟く。
「……あの男、少しうるさかった」
「あら、嫉妬してくれているんですか?」
からかうように言うと、グラヴェルは無言で窓の外を見た。
頬がほんのり赤いのは、きっと気のせいではない。




