竜の息吹、届くところ
山の空気がやわらいできた。
氷のようだった風が、どこか丸く、春の匂いを運んでいる。
フォリアは、城の回廊で干していた布をたたみながら、ふと空を見上げた。
淡い雲がゆっくりと流れ、青の深さが少しずつ増していく。
まるで、遠い王都とこの山を、静かに繋いでいるかのようだった。
「……今日は、穏やかですね」
背後の気配に気づき、フォリアが振り返ると、グラヴェルが無言で立っていた。
いつも通り、淡々とした表情。けれど、その影が、どこか柔らかくなっているように見えた。
「空気が変わった。南の魔気が減ってきている」
「あなたのおかげ、ですね」
フォリアが微笑むと、グラヴェルはふいと視線を逸らした。
だが、どこか居心地悪そうな仕草が、かえって親しみを感じさせた。
「……偶然だ。気の流れを整えただけ」
「それでも、誰かを救ったのです」
ふと、風が二人の間を通り抜ける。
その風は、まるで山の奥から吹き上がってくるようで――温かかった。
***
その頃、王都では、ひとつの報告書が王宮の机に置かれていた。
「“竜とともにある者”。その名は……やはりフォリア=リーナで間違いないと?」
執務室にいたのは、第一王子エルヴェルトの弟、第二王子・ルカ=セイヴィン。
王族らしからぬ素朴さを纏った青年だが、その目だけは真剣だった。
「はい。北の隠れ里で回収した旅人の証言でも、彼女は“竜の庇護を受けているようだった”と」
報告を受けたルカは、書類を閉じる。
「かつて捨てられた令嬢が、今や王国を救うような噂で語られている……皮肉だな」
彼の声音に、わずかな苛立ちが滲む。
それは、兄エルヴェルトの失態への苛立ちか。
あるいは――彼女を傷つけた過去に、何もできなかった自分への。
「だが……このまま放っておける問題ではない。王都では彼女の名が広まりつつある。対応を誤れば、国そのものが揺れるぞ」
ルカはそう言うと、側近に指示を出した。
「北の地へ、礼節をもって使者を送れ。“感謝と確認のため”という名目で。彼女に対して、いかなる失礼も許さぬように」
「はっ」
ルカは窓の外を見た。
南へ流れる風が、やがて王国全土を覆う。
その風の源が、“竜と少女の静かな暮らし”であるならば――
「せめて、その日々を守ることが、我々にできることだ」
***
その夜、山城では小さな宴が開かれていた。
宴といっても、フォリアが焼いたパンと、野菜のスープ、そしてハーブ入りの温かいワイン。
食卓の中央には、例の薄紅の花が飾られている。
「……この花、もうすぐ咲きそうです」
「見たことがある。古の花だ。人間の王都にもあったはずだが、今は絶えている」
「じゃあ……この花は、あなたとともに、ここで生きているんですね」
フォリアは、そっとその花に触れた。
「なんだか、わたしみたいです。王都では必要とされなかったけれど、ここでちゃんと、生きてる」
言って、自分で少し照れくさくなった。
けれどグラヴェルは、何も言わずにその言葉を受け止めていた。
ただ、ワインの入ったカップを持ち上げ、小さく言う。
「……生きているだけで、いい。咲かなくても、ここに在ればいい」
フォリアはカップを重ねて、微笑んだ。
たとえ、誰かに求められなくても。
誰かに必要とされなくても。
――この山に、ただ自分がいるだけでいい。
そんなささやかな時間が、何よりも尊いと、今の彼女は知っていた。
***
翌朝。
山道を、数騎の馬が登ってきていた。
丁寧に整った服装。旗には王国の紋章。
その中央にいるのは、若き騎士――第二王子の側近、クラウス・フェリート。
「ここが、“竜と暮らす聖女”がいる山か……」
澄んだ空気に、軽く息を吐く。
「――馬鹿げた噂だ。だが、もし本当なら。失った信頼を、少しは取り戻せるかもしれない」
使者たちは、慎重に、しかし確かな足取りで、山城の門を目指していた。
静かな暮らしに、初めての訪問者がやってくる。