山を越える風
王都に春の風が吹きはじめたのは、奇しくも“黒瘴熱”と呼ばれる疫病が沈静化を見せた日だった。
王城にある会議室では、重々しい空気の中で貴族たちの声が飛び交っていた。
「先週まで重症者が止まらなかったはずだろう。なぜ、突然……」
「神殿ですら祈祷では抑えきれなかったのです。だというのに、今や患者数は激減している。奇跡としか言いようがない」
一人の老貴族がぽつりと呟く。
「……いや、これは“北の加護”によるものだという噂が広がっている」
「北の、加護?」
「“北の山脈に眠る古竜が、再び目を覚ました”……と、民の間では。だが本当に驚くべきは、その竜の傍にいるという少女だ」
「少女?」
「名は……確か、“フォリア=リーナ”。かつて、第一王子殿下に婚約破棄された、あの貴族の娘だ」
室内に沈黙が落ちた。
フォリア=リーナ。
つい数ヶ月前、王太子エルヴェルト殿下の政略婚の相手として持ち上げられ、そして――あっさり捨てられた令嬢。
「……まさか、あの令嬢が、“竜を従えている”とでも?」
誰かが嘲笑を浮かべるが、直後に黙った。
情報をもたらしたのは、民草の噂ではなく、王宮直属の隠密部隊だったからだ。
真偽はさておき、北方の山域に強大な魔力の風が走ったのは事実。
その中心に、かつて追放された令嬢の姿がある。
皮肉なものだった。
かつて不要とされた少女が、今や王国の命運を救う存在として語られているのだから。
***
一方――
その“伝説の地”とされる北の山城では、当のフォリアが、花に水をやっていた。
いつもと同じ朝。
同じ石造りの回廊、同じ静けさ。
だが、彼女の心には、昨日の旅人の言葉が残っていた。
「竜と暮らす令嬢、聖女様と呼ばれておりますよ」
――何も、していないのに。
けれど、グラヴェルはあのとき、確かに人を救った。
空の気流を整え、魔力の流れを変えた。
その行動はどこまで意図したものかは分からない。でも彼の優しさによる副産物であったことは間違いない。
「……グラヴェル」
声をかけると、彼はいつものように柱の陰から現れた。
「風が、変わりましたね」
「……人間の世界は、騒がしい」
それが、グラヴェルなりの返答だった。
フォリアは小さく笑って、手にしていた花を差し出した。
「これは、庭の雪の下でようやく見つけた花です。咲くのは春の終わりですが……あなたにも、見てほしかったんです」
グラヴェルは黙ってその花を受け取った。
大きな手のひらに、薄紅の蕾が小さく乗る。
その対比に、フォリアはふと――何とも言えない安心感を覚えた。
「わたし、聖女なんかじゃありません」
「知っている」
「でも、あなたがしたことは、本当にすごいことだったと思います。わたし、ずっと、誇らしくて」
グラヴェルはふっと目を伏せた。
「……誇るようなものではない。あれは……」
「……“ただの風”ですか?」
彼は小さく、頷いた。
そう。
彼の力は、あまりに自然で、あまりに静かだった。
けれど、それを尊いと感じたのは、きっとフォリアだけではない。
だからこそ、人々は“奇跡”と呼んだのだろう。
***
王都・執務室。
窓から入る春風に、書類が一枚、ふわりと舞った。
エルヴェルトはそれを手に取り、読んだ。
《北の地にて、“聖女”の名を冠された元・婚約者。竜と暮らす令嬢、フォリア=リーナの噂》
「……フォリアが?」
椅子の背にもたれ、呆然と天井を見上げた。
王都で疫病が止んだ日――それは、フォリアの名が再び、王宮の中で囁かれはじめた日でもあった。
(今さら、何を――)
心の底で、何かがきしむ音がした。
自分が手放した少女が、世界を救ったなどと。
そんな事実、あってたまるか――