表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/24

噂の令嬢

城の中庭に、春の兆しが差し始めていた。

とはいえ山の冷気はまだ厳しく、窓の外では白い霧が風にちぎられて流れていく。


フォリアは暖炉の薪をくべながら、小さく息を吐いた。

窓辺の鉢植えに手を伸ばし、薄紅色の蕾をそっと撫でる。


「……今日も元気そう」


それは、彼女がこの山城に来てから育て続けている花だった。

冬の厳しさを越えて、ようやく芽吹き始めた命の色。


その様子を、ソファに腰かけたままのグラヴェルが静かに見ていた。


「寒くはないのか」


「ええ、大丈夫です。グラヴェルが火を強くしてくれましたし」


返した笑みに、竜はわずかに目を細めた。


グラヴェルは、火と風の精霊を従えることができる。

彼の調整で、城内の空気はいつも一定に保たれていた。


そんな彼の気遣いを、フォリアは知っている。

彼は何も言わないが、彼女が夜に咳をした次の日は、かならず空気が温かかった。


ふと、玄関のほうで扉を叩く音がした。

この山に来客など、まずないはずなのに――


フォリアが訝しげに戸を開けると、旅装の老人が一人、寒さに震えて立っていた。


「失礼、荷馬車が雪に埋もれてしまってな。せめて火を分けていただけぬか」


「もちろん。どうぞお入りください」


旅人は礼を述べ、暖炉のある部屋へと通された。

フォリアが茶を淹れる間、老人は薪の前で体を温めながらぽつぽつと話を始めた。


「いやぁ……山の空気がきれいで助かりますわい。王都では、もう大変なことになっておりましてな」


「何か、あったのですか?」


「ご存じない? “黒瘴熱”と呼ばれる病が流行っていてね。発熱と咳を伴って、重症者が続出しておる」


フォリアの表情がわずかに曇る。


「医者も薬師も手が出せず、国王自らが神殿に頭を下げたとも……。だが治まるどころか、どんどん広がっていた。ところが――」


老人は、湯気の立つ茶を受け取り、にやりと笑った。


「三日前から、急に病が治まりはじめたのですわ。空気が変わった、と皆が言っておる。西から流れてきた風が清浄だったと」


フォリアはハッとした。


(この山の空気……)


「それって、もしかして……」


彼女がちらりとグラヴェルに目をやると、彼は静かに目を伏せた。


言葉はない。だが、確信はあった。


彼が山の“気流”を整えたあの日。

それが、大気を通じて王都にまで影響を与えたのだろう。


「北の方に、神聖な気配があると、巷では噂です。“伝説の竜が目覚めたのでは”とさえ」


フォリアは思わず吹き出しそうになった。


伝説の竜――それが、今、目の前で黙々とお茶を飲んでいるこの男のことだと、誰が信じるだろう。


「まさか、ね」


「そうですとも。噂は尾ひれがつくものですからな。今では“竜を従える聖女が現れた”などとまで囁かれております」


その言葉に、フォリアは少しだけ固まった。


「……聖女?」


「ええ。“竜とともに暮らす緑玉の瞳の令嬢”だと。お嬢さんの目と似ておりますな」


老人は冗談めかして笑ったが、フォリアの表情は変わらなかった。


茶を口に運びながら、内心では複雑な想いが渦巻いていた。


(まさか、そんなふうに……)


グラヴェルの力によって救われた人々。

けれど、その功績は、誤解のうちに彼女自身へと向けられていた。


「竜を従えた聖女」

かつて「不要」と切り捨てられた自分が、今、そんな風に語られている――


「面白い話をしてしまいましたな。では、これで失礼いたします」


礼を言って去っていく老人の背中を見送った後も、フォリアはじっと暖炉を見つめていた。


「……なんだか、不思議ですね」


「何がだ」


「わたしは何もしていないのに、褒められているんです。昔はどれだけ努力しても、笑われてばかりだったのに」


グラヴェルは応えなかった。

ただ、ゆっくりとフォリアの手元のカップを見やり――小さく呟いた。


「お前は、ここにいて、ただ生きているだけでいい」


それだけで、フォリアの胸が熱くなった。


誰かにそう言ってもらえることが、どれほど嬉しいことか。

これまでの人生で、初めてだった。


「……ありがとう、グラヴェル」


彼は少しだけ目をそらして、窓の外を見た。

白い霧が、やがて晴れ間を見せていた。


春は、もうすぐそこまで来ている。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ