噂の令嬢
城の中庭に、春の兆しが差し始めていた。
とはいえ山の冷気はまだ厳しく、窓の外では白い霧が風にちぎられて流れていく。
フォリアは暖炉の薪をくべながら、小さく息を吐いた。
窓辺の鉢植えに手を伸ばし、薄紅色の蕾をそっと撫でる。
「……今日も元気そう」
それは、彼女がこの山城に来てから育て続けている花だった。
冬の厳しさを越えて、ようやく芽吹き始めた命の色。
その様子を、ソファに腰かけたままのグラヴェルが静かに見ていた。
「寒くはないのか」
「ええ、大丈夫です。グラヴェルが火を強くしてくれましたし」
返した笑みに、竜はわずかに目を細めた。
グラヴェルは、火と風の精霊を従えることができる。
彼の調整で、城内の空気はいつも一定に保たれていた。
そんな彼の気遣いを、フォリアは知っている。
彼は何も言わないが、彼女が夜に咳をした次の日は、かならず空気が温かかった。
ふと、玄関のほうで扉を叩く音がした。
この山に来客など、まずないはずなのに――
フォリアが訝しげに戸を開けると、旅装の老人が一人、寒さに震えて立っていた。
「失礼、荷馬車が雪に埋もれてしまってな。せめて火を分けていただけぬか」
「もちろん。どうぞお入りください」
旅人は礼を述べ、暖炉のある部屋へと通された。
フォリアが茶を淹れる間、老人は薪の前で体を温めながらぽつぽつと話を始めた。
「いやぁ……山の空気がきれいで助かりますわい。王都では、もう大変なことになっておりましてな」
「何か、あったのですか?」
「ご存じない? “黒瘴熱”と呼ばれる病が流行っていてね。発熱と咳を伴って、重症者が続出しておる」
フォリアの表情がわずかに曇る。
「医者も薬師も手が出せず、国王自らが神殿に頭を下げたとも……。だが治まるどころか、どんどん広がっていた。ところが――」
老人は、湯気の立つ茶を受け取り、にやりと笑った。
「三日前から、急に病が治まりはじめたのですわ。空気が変わった、と皆が言っておる。西から流れてきた風が清浄だったと」
フォリアはハッとした。
(この山の空気……)
「それって、もしかして……」
彼女がちらりとグラヴェルに目をやると、彼は静かに目を伏せた。
言葉はない。だが、確信はあった。
彼が山の“気流”を整えたあの日。
それが、大気を通じて王都にまで影響を与えたのだろう。
「北の方に、神聖な気配があると、巷では噂です。“伝説の竜が目覚めたのでは”とさえ」
フォリアは思わず吹き出しそうになった。
伝説の竜――それが、今、目の前で黙々とお茶を飲んでいるこの男のことだと、誰が信じるだろう。
「まさか、ね」
「そうですとも。噂は尾ひれがつくものですからな。今では“竜を従える聖女が現れた”などとまで囁かれております」
その言葉に、フォリアは少しだけ固まった。
「……聖女?」
「ええ。“竜とともに暮らす緑玉の瞳の令嬢”だと。お嬢さんの目と似ておりますな」
老人は冗談めかして笑ったが、フォリアの表情は変わらなかった。
茶を口に運びながら、内心では複雑な想いが渦巻いていた。
(まさか、そんなふうに……)
グラヴェルの力によって救われた人々。
けれど、その功績は、誤解のうちに彼女自身へと向けられていた。
「竜を従えた聖女」
かつて「不要」と切り捨てられた自分が、今、そんな風に語られている――
「面白い話をしてしまいましたな。では、これで失礼いたします」
礼を言って去っていく老人の背中を見送った後も、フォリアはじっと暖炉を見つめていた。
「……なんだか、不思議ですね」
「何がだ」
「わたしは何もしていないのに、褒められているんです。昔はどれだけ努力しても、笑われてばかりだったのに」
グラヴェルは応えなかった。
ただ、ゆっくりとフォリアの手元のカップを見やり――小さく呟いた。
「お前は、ここにいて、ただ生きているだけでいい」
それだけで、フォリアの胸が熱くなった。
誰かにそう言ってもらえることが、どれほど嬉しいことか。
これまでの人生で、初めてだった。
「……ありがとう、グラヴェル」
彼は少しだけ目をそらして、窓の外を見た。
白い霧が、やがて晴れ間を見せていた。
春は、もうすぐそこまで来ている。