竜の傷
静かな夜が明けた。
冷たい霧が山を包み込み、城の石壁には白い露が滴っていた。
フォリアは一人、廊下を歩いていた。
薪を抱え、使っていない部屋を少しずつ整えている。
それが、今の彼女の日課だった。
廃墟に近かったこの城には、まだ手の届いていない場所が多い。
だが、それらを一つずつ綺麗にしていくことで、彼女は自分の居場所を確かめていた。
小さな扉を開ける。
そこは、古びた応接室のようだった。
「……随分、埃が積もってる」
布を取り出し、棚の上を軽く拭う。
ふと、棚の奥に、何かが置かれているのが目に入った。
小さな、黒い箱だった。
取り出してみると、それは意外なほど重かった。
「……これ、なんだろう」
留め金を外し、そっと蓋を開ける。
中には――一本の剣が入っていた。
小ぶりな片手剣。
刃には傷が多く、柄の革は擦り切れている。
戦いの痕が、そこに残されていた。
フォリアは息をのんだ。
その剣には、何かただならぬ気配があった。
けれど、目を離せなかった。
まるで、何かを訴えるように――誰かの記憶を、今も刻んでいるように。
そのときだった。
「それに触れるな」
低い声が、背後から響いた。
フォリアが振り返ると、そこにはグラヴェルが立っていた。
「ご、ごめんなさい……勝手に、見てしまって……!」
フォリアは慌てて剣を箱に戻し、蓋を閉じた。
グラヴェルは彼女に近づき、箱をそっと取り上げる。
その手のひらが、わずかに震えていた。
「それは、かつて……俺が仕えた者の剣だ」
「仕えた……?」
「人間の王だ。もう何百年も前のことだ」
初めて語られる彼の過去に、フォリアは息を呑んだ。
「その王は、愚かだった。だが、優しかった」
「……あなたが、誰かを“優しい”と呼ぶなんて……」
フォリアの言葉に、グラヴェルはふっと目を伏せる。
「俺は、彼のために剣を振るった。そして、彼のために……この身を竜へと変えた」
静かな告白だった。
「だが、王は死に、国は滅びた。俺は、ただ残っただけだ。ここに、何もない山の上で」
「……それでも」
フォリアは言葉を探し、そっと続けた。
「あなたは、この剣を捨てなかった。ずっと、持っていたんですね」
グラヴェルは何も答えなかった。
けれど、その横顔は、どこか遠い昔を見ていた。
フォリアは、静かに彼の手に手を重ねた。
「なら、わたしが――この城を、少しずつ生きた場所にしていきます。
あなたの“今”が、過去だけじゃなくなるように」
その言葉に、グラヴェルの肩が僅かに揺れた。
「……お前は、いつもそうだな。勝手に入ってきて、勝手に言って、勝手に触れて」
「それが、わたしの“傲慢”です」
フォリアは微笑む。
グラヴェルは、わずかに目を細めた。
そして、黙って箱を棚に戻した。
「ここには、もう入るな。……だが、今のことは、許す」
その声に、どこか優しさが混じっていた。
フォリアは胸の奥があたたかくなるのを感じた。
それは、剣をめぐる物語ではない。
ただ、心の傷を知った瞬間だった。
***
夜。
フォリアは暖炉の前で、静かに花茶を淹れていた。
城に咲いていた、あの白い花。
少し乾かして、茶葉代わりに使う。
カップを二つ。
一つは自分に、もう一つは――空の椅子へ。
「あなたの“今”が、孤独だけじゃなくなるように」
小さく囁いた声は、火の灯りに溶けていった。
彼がその言葉を聞いたかどうかは、わからない。
けれどその夜、グラヴェルはひとり、城の塔の上で、長く空を見上げていた。
星が滲んで見えるほど、風は冷たかった。
だが、心のどこかに、遠い光がともるような気がしていた。