竜の心、人の灯
夜が明けて、冷たい風が山を駆けた。
竜の棲む城は、いつもと同じように静かだったが、今朝は少し違っていた。
フォリアの目覚めは早かった。
昨晩の物語が、まだ胸の奥に残っている。
竜と娘の物語。
結末のない物語。
フォリアはそっと本を閉じ、膝の上に置いた。
「続きを……書いてみようかしら」
誰に言うでもなく、呟いたその言葉。
けれどその声は、暖炉の残り火に吸い込まれるように、柔らかく広がっていった。
***
その日、グラヴェルの姿は朝から見えなかった。
彼が出かけることなど、そうあることではない。
それが不思議に思えて、フォリアは少しだけ胸をざわつかせた。
「……何か、あったのかしら」
彼のことを知っているつもりなどない。
それでも、今では“彼がいない空気”を感じ取れるほどに、感覚が慣れていた。
一人きりの食事を終え、彼女は城の廊下を歩いた。
石造りの壁に囲まれた空間。
どこもひんやりとしていて、時折、古い絵画や鎧が飾られている。
人が暮らしていたはずの名残――けれど、いまは竜の孤独だけが残されていた。
そのとき、彼女の視線がある扉に吸い寄せられた。
「……鍵が、ない?」
小さな木製の扉。
普段なら気にも留めないような場所だったが、今日はなぜか、それが“開かれている”ことに気づいた。
中を覗くと、薄暗い小部屋が広がっていた。
書斎だった。
小さな机に、古びた本が山のように積まれている。
壁には手書きの地図。人の言葉ではない、見たこともない文字が並ぶ。
そして、奥にあった小さな棚の上――一枚の絵が、フォリアの目にとまった。
「……これは」
色褪せたスケッチ。
そこには、幼い少女を抱きかかえる青年の姿が描かれていた。
その横顔は、間違いなく――グラヴェルだった。
フォリアは思わず、手を伸ばしそうになった。
だが、その指先は寸前で止まる。
「……触れてはいけない気がする」
この部屋には、グラヴェルの“過去”がある。
彼の語らぬ時間が、沈黙の中で眠っている。
そっと扉を閉じ、フォリアは胸に小さな重みを抱えながら、城の奥へ戻っていった。
***
その夕暮れ。
城の外れにある広場に、グラヴェルが戻ってきた。
肩に何かを背負っている。
見ると、それは薪だった。
「……山の下の森に行っていたのですね」
フォリアの声に、グラヴェルは一瞥をくれただけだった。
その瞳は相変わらず、冷たいようで、どこか戸惑っているようにも見えた。
「この城には、まだ使える暖炉が少ない。火は、贅沢な灯りだ」
「でも、寒い夜に火があるだけで、心が楽になるんです」
フォリアは、薪を受け取ろうとして手を伸ばす。
が、彼はそれを避けるように歩き出した。
「お前の手には重い」
「でも、わたし――」
「……誰かのために何かをすることが、すべて善だと思うな」
その言葉に、フォリアはぴたりと足を止めた。
「優しさは時に、傲慢になる」
静かな声だった。
責めているのではない。
ただ、それは彼が何度も――身をもって、痛みとして学んできたもののようだった。
フォリアはうつむいて、小さく頷いた。
「……ごめんなさい。わたし、ただ、何かしていたくて」
「それは、わかる」
グラヴェルは足を止めた。
振り返らずに、ぽつりと呟く。
「俺も、かつてそうだった」
フォリアは、はっと顔を上げた。
だがそれ以上、彼は何も言わなかった。
ただ、背中だけが、ほんの少し――痛ましく見えた。
***
夜。
食事を終えたフォリアは、暖炉の前で彼を待っていた。
彼が来るとは限らない。
それでも、静かな灯りの中で、彼と少しだけ話す時間を――彼女は、きっと望んでいた。
火はやがて、ぱちり、と音を立てて小さな火花をはじいた。
その音に導かれるように、グラヴェルがやってきた。
「……茶を淹れた。飲め」
手に持っていたのは、二つの湯飲み。
片方には、あの白い花の香りが漂っていた。
フォリアは驚いて、それからゆっくりと受け取る。
「ありがとう、ございます」
沈黙。
けれど、それは不快なものではなかった。
ただ、焚き火と香りと、遠い雪の気配だけが、二人の間に満ちていた。
やがて、フォリアはぽつりと囁いた。
「わたし、この城が、少しずつ好きになってきました」
グラヴェルは応えなかった。
けれど、その赤い瞳はほんのわずかに揺れていた。
火が、心を灯していく。
静かに、静かに。