竜の棲む山
朝の光が、静かに窓から差し込んでいた。
冷たい空気が部屋の隅をなぞるように流れ、フォリアは目を覚ました。
彼女はまだ夢を見ているような気がしていた。
あの断罪の日から、どれほど時間が経ったのか。
ここがどこなのか、今の自分が何者なのか――すべてがぼんやりとしていた。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
あの夜、雪の森で彼に拾われて以来、彼女は「竜の城」と呼ばれるこの場所で生きていた。
窓の外には深い森と、切り立った崖。
遠くには雲を貫くような山々が連なり、まるでこの城だけが世界から隔絶されているかのようだった。
フォリアはゆっくりとベッドから起き上がり、暖炉に火を入れる。
薪のはぜる音が、心を落ち着かせてくれた。
「今日も……いい天気ですね」
思わずつぶやいた言葉に応える者は、もちろんいない。
だが、ほんの少しだけ、部屋がやわらかく笑ったような気がした。
***
グラヴェルは、城の高い塔にいた。
塔の最上階から、遠くの空を見下ろしている。
鳥たちの声が、風に混ざって聞こえる。
ここには人間の営みも、騒がしい言葉もない。
代わりにあるのは、静寂と、変わらぬ空だけ。
(……また、雪が降るか)
雲の流れを見ながら、彼は小さくつぶやいた。
その顔に浮かぶ表情は、やはり読めない。
「……お前、よく喋るな」
昨日のことを、ふと思い出した。
部屋の花瓶が割れたとき、彼女は必死に謝っていた。
何度も、何度も。
――それでも、私……ここにいて、いいんでしょうか?
その問いに、グラヴェルは答えなかった。
けれど、内心でこう思っていた。
(お前がここにいることが、こんなにも――煩わしくないとはな)
自分でも驚いていた。
人間など、煩わしい存在のはずだった。
嘘をつき、奪い合い、弱さを隠すために他者を傷つける者たち。
だがあの少女だけは、ただ静かに生きていた。
誰かを責めることもなく、かといって自分を卑下するわけでもない。
壊れていそうで、壊れていない――芯が、どこかにある。
「……愚か者め」
そう言いながらも、グラヴェルの声には毒がなかった。
むしろ、どこか遠くを懐かしむような、かすかな響きさえあった。
***
その日の昼。
フォリアは、城の中庭に出ていた。
高い石壁に囲まれたその場所には、冬の花がわずかに咲いていた。
霜にも負けず咲く小さな白い花たち。
あの日、グラヴェルが淹れてくれたあの花茶と、よく似ている。
「……この花、やっぱり、わたしが好きなのを覚えていてくれたのかしら」
小さな声。
誰にも届かなくていい、独り言。
フォリアは花の前にしゃがみ込み、そっと手を伸ばした。
「綺麗ね。寒いのに、ちゃんと咲いてる」
「お前も、よく似ている」
その声に、フォリアは息をのんだ。
振り返ると、グラヴェルが背後に立っていた。
「……寒さに耐え、なお咲く。だが、根を傷つければすぐに枯れる。繊細で、しぶとい」
フォリアは苦笑した。
「それって、褒めてくださってます?」
「……どうだろうな」
グラヴェルは目をそらし、庭の石壁を見上げる。
雪が降る前の曇天。遠い雷の気配。
「天気が崩れる。今日は外に出るな」
「……はい。わかりました」
それだけ言うと、グラヴェルは踵を返して去っていった。
彼の背中を見つめながら、フォリアはぽつりと呟いた。
「あなたも、たまにはお茶でも飲んでくれればいいのに」
***
その夜。
城の広間で、ひとり食事を終えたフォリアは、暖炉の前に座っていた。
手には本。グラヴェルが持ってきてくれた古い物語集だ。
どこの国のものかはわからないが、字は読める。
眠る前のひとときに、心を鎮めるにはちょうどいい。
ページをめくるたび、古びた紙の匂いと静かな物語の風景が、フォリアの中に広がる。
――“竜と娘の話”。
竜はひとりで山に住んでいた。
そこに人間の娘が迷い込み、二人はしばらくともに暮らす。
だが、竜はやがて娘を人間の世界へ返し、自ら姿を消す。
誰もが竜を忘れたころ、娘だけが、彼のことを思い続けていた――
(……なんだか、今の私みたい)
読んでいるうちに、自然とまぶたが重くなってきた。
本を胸に抱いて、そっと目を閉じる。
暖炉の火が、静かに揺れていた。
その奥で、気づかれぬように扉が開く。
赤い瞳が、眠るフォリアの姿をそっと見つめていた。
「……あの話は、結末が書かれていない。作者が死んだのか、あるいは……」
グラヴェルの声は、誰にも届かない独り言。
彼は火の灯りに照らされたフォリアの横顔を見つめ、ほんの一瞬だけ、目を細めた。
「お前なら、続きを書くかもしれんな」
そう言い残し、静かに扉を閉じた。
そして、城の静けさは再び、深く、深く降り積もっていった。