百年後の雪
あの惨劇から、何度の季節が巡ったか。
雷の王にして、終焉を告げる竜。
その亡骸は、今も王都跡から遥か離れた山深き地に眠っていた。
黒き翼は朽ち、鱗は苔に覆われ、鋭き爪すらも風雨に削られてなお、かつての威容を宿していた。
その傍らに、ひとりの少女――いや、もはや「少女」と呼ぶには相応しくない、静かな時を生きる者がいた。
かつて王都に生まれ、民に愛された花。
そして、竜に攫われ、世界に「災厄」として刻まれた存在。
彼女は今、誰にも知られぬ地にひっそりと暮らしていた。
かつてグラヴェルが築いた竜の城。
今は崩れかけたその石の屋根の下に、小さな庭をつくり、花を育て、書を読み、そして眠る――そんな静かな日々。
季節は冬。
雪が絶え間なく降り続いていた。
空は白く閉ざされ、あたりはただ、音もなく、冷たく。
けれどフォリアはその冷気に震えることもなかった。
かつて彼女は人だった。
けれど、長い歳月のうちに、身体の奥に流れた「竜の血」が、静かに、その形を変えていった。
ある朝、目覚めたとき、自分の爪が少し黒ずんでいることに気づいた。
ある夜、ふと鏡に映る瞳が、獣のように光っていた。
気づかぬふりをしようとしたが、それはゆっくりと、確実に、彼女を変えていった。
「もう、人には戻れないのかもしれない」
フォリアは、竜の亡骸の脇に腰を下ろし、雪の積もった肩にそっと手を置いた。
「でも……あなたの傍にいる限り、それでもいいと思えたの」
一度も返事のない骸。
けれどそこには確かに、何かが眠っている気がした。
思えば、彼女の世界は、すべてこの存在に奪われた。
父を失い、民を焼かれ、国を喪った。
けれど、同時に……彼の背に抱かれて見た空の色。
一度だけ、微笑んだ横顔。
抱き寄せられた夜の温もり。
それも、失くしたくなかった。
雪はやまない。
灰の王都の記憶も、やがて人々の言伝えとなり、そして忘れられていく。
今、この山に来る者はいない。
フォリア自身、それを望んでもいた。
「……誰も、来ないで」
そう思っていた。
これ以上、何も奪われたくなかった。
これ以上、誰かを失いたくなかった。
心は、すでにひとつの棺のように、閉ざされていた。
けれど、その日は違った。
雪が強く吹きすさぶある夕暮れ。
遠くで何かが倒れる音がした。
警戒心も、驚きも、不思議と湧かなかった。
ただ足が勝手に動き、雪の中へ踏み出した。
そして見つけた。
ひとりの若者が、血に染まり、雪に沈んでいた。
傷だらけの身体。
破れた衣の紋章は、どこか懐かしいものを思わせた。
その唇が、かすかに動いた。
「……俺は……王家を……追われた……」
フォリアは、目を見開いた。
遠い昔、同じように倒れていたひとりの人間を思い出した。
あの日。
荒れ果てた雪原に、傷だらけの身体を晒して、
誰にも見捨てられ、世界を呪っていた――自負の姿を。
グラヴェル。
かつて自分を助け、そして、誰よりも深く愛した竜。
その面影が、目の前の若者の中に、微かに、確かに、宿っていた。
何かが崩れた気がした。
閉ざされていた棺の蓋が、軋むような音を立てた。
胸の奥に埋めた、記憶の書が、風にめくられた。
フォリアは、そっと若者に手を伸ばした。
彼の額に触れ、熱を感じる。
「……なぜ、ここへ来たの?」
答えはない。
けれど、それでもいい気がした。
グラヴェルとあの冬過ごした暖かな記憶が鮮明に甦る。
「ねえ……あの日、あなたが私にしてくれたことを……今、わたしも――」
その声は風に消える。
けれど、どこかで微かに、あの雷竜の咆哮が聞こえた気がした。
静かに、彼女は若者を抱き上げる。
竜の城へと戻る足取りは、かつて彼女が背負われた日と同じように、雪を踏みしめていた。
氷の夜が深く降り積もる。
けれどその白さの中、二人の影だけは、確かに、温もりを帯びていた。
――遠い昔、グラヴェルが持って来てくれた結末の書かれていない「竜と娘の話」。
生きている限り、その続きは書き換えられる。
ただ娘の幸せを願い、娘は竜を想う。
それは悲しみではない、いつかその場所へ辿り着く為の物語。




