凍える森と燃える瞳
目を覚ましたとき、フォリアは自分が生きていることにまず驚いた。
あのまま凍えて死ぬと思っていた。あんな雪の森の中で、誰にも気づかれず消えていく。
けれど、こうして目を開いたということは、奇跡でも起きたのだろうか。
視界には、石造りの天井と太い柱が並んでいた。
火の灯る燭台が壁にかけられ、周囲には簡素ながら重厚な調度品が揃っている。
どこか荘厳な、そして……非人間的な空気。
(……ここは……どこ?)
重い身体を起こそうとすると、毛皮のような温かい何かがかけられていた。
ふわりとそれを落とした瞬間、部屋の隅から低い声が聞こえた。
「……起きたか」
びくり、とフォリアは肩を震わせた。
反射的に振り向くと、そこには漆黒の服に身を包んだ男が立っていた。
長い銀髪。人間離れした端整な顔立ち。
だが何より印象的だったのは、その目。
深い紅。燃えるようで、どこか寂しげな――そんな瞳。
「あなた……は?」
声を出すのも久しぶりだったせいか、喉がひりついた。
男はしばしフォリアを無言で見つめ、やがて静かに名を告げた。
「グラヴェル。ここいらに住む、竜だ」
「……竜、ですって……?」
信じがたい言葉だった。
けれど、その声と雰囲気は、人ではない何かを確かに感じさせた。
(この人が、わたしを……助けてくれたの?)
恐怖もあった。だが、それ以上に心の奥がざわつく。
この場所で目覚め、この人の目を見た瞬間に――どこか懐かしさのようなものを覚えていた。
「お前を拾ったのは、ただの気まぐれだ。人間と竜は憎しみあう種族だしな。あまり期待はするな」
釘を刺すように言い放ったその声には、鋭さよりも疲労のような響きがあった。
何かを拒絶する癖が染みついた人の声。
「……ありがとうございます。助けてくれて」
フォリアは頭を下げた。
どんな理由であれ、自分の命を拾ってくれた存在に、礼を言わずにはいられなかった。
「……感謝などいらん。勝手に死なれても困るからだ」
「それでも、お礼を言いたいんです」
まっすぐな言葉だった。
グラヴェルは視線を外すように窓の外に目を向けた。
「しばらく、ここにいろ。外は人間に向いていない」
「はい……お言葉に甘えます」
フォリアは、ゆっくりと毛皮をかけ直す。
そのやり取りは、まるで――見知らぬ同居人同士の最初の会話のようだった。
***
それから数日、フォリアは城の中で静かに過ごした。
城、と呼ぶのが正しいのかはわからない。
人の手で建てられたとは思えないほど大きく、そして寒々しい空間。
だが、整った廊下や、食事が用意された部屋を見るに、ここは確かに“誰かの居場所”だった。
フォリアは、少しずつ歩けるようになってから、部屋の中の掃除を始めた。
誰に頼まれたわけでもない。
けれど、何かをしていなければ、心が壊れそうだったから。
薪をくべる。石窯で温め直したスープを飲む。
あの塔の窓辺から見える、森の景色を見る。
まるで時間が止まったような生活。
けれど、奇妙な安心感がそこにはあった。
そして、ときどき訪れるのが“彼”――グラヴェルだった。
竜だというのに、常に人の姿で現れ、言葉は少なく、表情も読めない。
ただ、冷たいようでいて、決して突き放すこともない。
(この人は……本当に、人間が嫌いなのだろうか?)
そう思ったきっかけは、フォリアが花瓶を割った日のことだった。
水を変えようとして、手が滑った。
陶器の花瓶が石床に砕け、水が飛び散った。
「あっ……!」
慌ててタオルを取りに走ろうとした瞬間。
背後から、静かにグラヴェルが現れた。
「怪我は」
「え……あ、ありません!」
「なら、よい」
それだけを告げて、彼は無言で床を片づけ始めた。
砕けた花瓶の破片を、素手で集めて。
「ま、待ってください、それは私が……!」
「傷つけるものは、俺には通らぬ。お前は人間だ。指を切るだろう」
その言葉に、フォリアは胸がぎゅっと詰まった。
優しさではなく、“当然のこと”として言う声だった。
「……あなた、やっぱり、優しいですね」
「違う」
「違わないと思います」
グラヴェルは、初めて少しだけ目を見開いた。
けれどすぐに視線をそらし、まるで何かを誤魔化すように、そっとため息をついた。
「勘違いは、命取りだぞ」
それでもフォリアは、微笑んでいた。
人ならざる存在に対して心から、安心できると思った自分が不思議だったのだ。
(この人の隣にいてもいい、なんて思うのは、きっと傲慢なんでしょうけど……)
(でも、今だけは)
(――ここにいさせて)
彼女の胸の奥で、小さな焔が灯る。
それはまだ、名前もつかない感情。
けれど、凍える森に落ちた心を、確かに暖めていた。