近づく影
「……王都から、もう一度、使者が来るそうです」
朝の食堂で、湯気の立つスープを口に運びながら、フォリアがぽつりと言った。
「今度は、“王都にお招きしたい”という名目で」
グラヴェルは黙ってフォリアを見つめていた。
その金の双眸は、微動だにせず、だが鋭さを帯びている。
「招く、というより――引き戻そうとしているのだろう」
「……ええ、きっとそう」
フォリアは静かにうなずいた。
「“緑玉の瞳の聖女”――そんな立派な名前をつけられて、わたしの意思なんて、誰も気にしていない」
「王都というのは、そういう場所だ」
グラヴェルが低く言う。
「力ある者を崇め、必要がなければ切り捨てる。……だから、俺はあの場所を嫌っている」
フォリアはスプーンを置き、ふうと息を吐いた。
「……でも、嫌われるのは慣れてるんです。王都では、いつもそうだったから」
どこか遠くを見るように、フォリアは言った。
「けど、今回は違います。あなたがいる。ここに、“帰る場所”がある。……それだけで、少しだけ強くなれそう」
グラヴェルは何も言わなかった。
ただ、彼の尾が静かに椅子の脚に巻きつき――小さく、ぽんと一度だけ叩いた。
それが、彼なりの肯定だった。
***
その頃、王都では第三の“派閥”が動き始めていた。
フォリアを擁立しようとする第二王子派。
無かったことにしたい第一王子エルヴェルト派。
そして、新興貴族を中心とする野心家たち。
「“緑玉の瞳の聖女”が民の支持を集めている今、彼女を後ろ盾にすれば、王家の発言力に並ぶことも夢ではない」
「竜の力もある。噂が本当なら、戦力としても破格」
「もはや彼女は、ひとつの象徴だ。利用できるうちに囲い込まねば――」
男たちの声が交錯するその部屋で、ひとりの女が、ワイングラスを揺らしていた。
カレン=ミスティア。
王太子妃の座を狙い、かつてフォリアを嘲笑った女。
「愚かね。都合が良くなれば、すぐに取り戻そうとする。……でも、わたくしは彼女より“上”に立っているわ」
くす、と笑う。
「“聖女”が戻ってくるなら、それはそれで面白い。かつての令嬢が、どれだけお飾りのままか、見ものじゃない?」
その笑みの奥には、どこまでも冷たい計算があった。
***
数日後。
再びやってきた使者は、前回とは比べものにならないほど丁重だった。
金糸で縁取られた礼服、王家の正式な印章入りの招待状。
そして、書面にはこう書かれていた。
《“緑玉の瞳の聖女”フォリア=リーナ殿。
貴女のご功績を讃え、王都へお招きし、改めて感謝を申し上げたく存じます。
民の希望たる貴女の存在に、王国として敬意を――》
「……これ、まるで神様に向けた文章みたいですね」
フォリアは苦笑しながら書状を畳んだ。
「でも、わたしはただの人間です。竜に助けられて、ここで静かに暮らしているだけの」
使者は困ったように眉を下げた。
「それでも、王都の民は、貴女を希望と信じています。……どうか、一度だけで構いません。顔を見せていただけませんか」
その言葉に、グラヴェルの尾がぴくりと動いた。
彼は使者を見据え、静かに口を開く。
「……この女の意志を無視する者は、王族であろうと貴族であろうと、容赦しない」
使者は硬直し、青ざめてうなずく。
フォリアは、グラヴェルの横顔を見ながら、ふと微笑んだ。
(ああ……)
(この人がいてくれるなら、もう、わたしは何も怖くない)
***
夜。
フォリアは書状を焚き火にくべた。
紙が焦げ、光の中で灰になる。
「……行きません。今のわたしに必要なのは、称賛でも王都の舞台でもない。ここで、生きることです」
ぽつりと呟いたその言葉は、誰に向けたわけでもない。
ただ、自分のための、決意の声だった。
そして遠く、夜風が舞い上がった。
それはまるで、王都へ向かって“聖女の拒絶”を告げるかのように、冷たく、鋭く――美しかった。




