3_隠しファイル
◾️第一章
「ヴァーベナですかね?」
小津の質問に、システム担当の久我モトキは「え?」と言って静止画のような笑顔になった。
「あ、すみません。ロビーの香りのことです」
主語がないし唐突だったなと思って言い直した。今度は相手も理解したようで「あぁ」と動的な空気が流れた。
「支配人が香りにうるさい人で。おっしゃる通り今日はヴァーベナだと思います」
恵比寿にあるプラウドイーストホテル、その受付ヒューマノイドが故障していると聞いて修理か廃棄かの判断を相談したいと依頼があったのだ。
ここのホテルはR/F社とそれなりに付き合いがあるので、久我とも何度か会っている。システム担当と言ってもホテルマンなので服装こそフォーマルなジャケットを着ているが、非常に栄養状態の良さそうな体格でかなり窮屈そうだ。適温であるはずのロビー内をふーふー言いながら数歩進むごとにハンカチで汗を拭っている。
ロビーを通り過ぎ、スタッフ専用のエリアに案内されると、そこには一体のヒューマノイドが部屋の角に待機していて、顎をわずかに震わせていた。笑顔の口角だけが指示を忘れたみたいに上がったまま戻らない。
「SHINOと呼んでます」
小津は久我に了承をもらい、とりあえず起動して症状を見ることにした。
「ようこそ——ようこそ——ヨ——」
シノの声が段差でつまずくように突っかかる。ピッチが半音ずれて、次の単語に乗り切れない。右の眼の内側で虹彩リングが高速に縮んだり開いたりを繰り返し、顔認識を掴み損ねているのが分かる。
久我はなぜか小声に耳打ちするような小声で囁く。
「朝いちから、こんな調子なんです。昨日の夜は問題なかったんですよ」
「ネットワークは切り離してます?」
「ええ、このバックヤードに入ってからはセーフモードに落としました。お客さま情報が絡まないように……。核メモリが無傷なら新たなボディへ移行して、あとはリサイクルが妥当なのかなって思ってます」
R/F社はロボット専門葬儀会社と謳ってはいるが、世の中ロボットに愛情を持っている人間ばかりではない。寧ろ生物の葬儀を行わないというだけでロボティクス関連の修理、リサイクル関連の相談や依頼も同時に受けることが多々ある。
小津は胸元の所有者タグにリーダーを近づける。反応は良好。法的な持ち主はホテルで間違いない。
「まず、安全を確認します」
カウンターの縁に触れない距離で、関節部の温度をサーモで舐める。左肩サーボが62℃。アイドルにしては高い。関節PIDの積分が飽和して、笑顔を戻す命令に追いつけてない。
鼻に少し金属とオゾンの匂いが乗った。一瞬だけ、古いフラックスの甘い匂いも。
「最近、肩のユニットを交換しました?」
「一週間前に外部の業者に。メーカーさんの純正がもう手に入らなくて……」
久我は言いにくそうに眉を寄せた。
(EOLってことか。非純正で繋いだ結果、制御の逃げ場がなくなったか…)
EOLはEnd Of Lifeの略で、製品ライフサイクルの最終段階。要は公式のサポート終了で、不具合があっても面倒は見られませんよ、という意味だ。ただ、最新のボディが常に一番良いとも限らない。
要はその領域の仕事ができていれば問題ないし、車と同じで古くてもヴィンテージになるようなものもある。
次に人間でいう頸の部分にケーブルを差し込み、持ってきた端末に接続する。簡易的なウイルスチェックや比較的新しい表層記憶領域において不審な形跡がないかをチェックする役割がある。
「ん?なんだこれ…」
小津はモニターを覗き込み、思わず独り言を呟く。
「——Pj.Shroud……隠しファイル?…隠しファイルねぇ」
小さく唸って首を傾げる。隠しファイル自体は決して珍しいものでもない。ユーザーが気にすることはほとんどないだけで、OSやアプリケーションの動作を制御をするものや、プログラムが予期せず終了になった場合に備えて一時的なバックアップとして存在するものもある。
小津が気になったのは、メタデータの更新時刻が「—:—:—」と空白化されていたためだ。表層記憶領域にあるのに、ファイルシステムのどの枝にも属していない。所有者タグの領域照会とは別の層だ。プロセス一覧を覗くと、肩サーボのPIDサービスに寄生するようにdrv_shrd.dllがいる
「ドライバ直下?dll……?うーんなんでこんなところにあるんだ?」
事実を羅列しても意味がわからないことはあるものだ。ALAを使えばもう少し具現化した情報が収集できるのだが、久我が目の前にいる状態では流石に使えない。
だが気になる。
ぶつぶつ独り言を言っているように見えたのだろう、事実そうなのだが久我が不安そうに画面を覗き込んでいるのに気づいて「久我さん、これ…」と言って一応画面を見せる。
「“.dll”?何かのプログラムですか?」
久我はシステム担当と言っても専門職ではなくホテル内人事による「係り」のようなものだ。関連がなければ一生聞くことのない用語などいくらでもある。
「いえ、これ単体では何もできないはずで…必要なときに取り出して使う工具セットみたいなイメージです。それがこのシノの肩サーボの制御を司る領域にぽつんと」
[.dll]はダイナミック・リンク・ライブラリの略でアプリから呼び出される関数やリソースの詰め合わせだ。だがこれだけでは何もできない。小津の違和感は、平たく言えば“こんなところに何故か工具箱が捨てられている感じ”がしたのだ。
「それにぴーじぇー…しょろうど?なんですこれ?」
まぁ知らないよな、と思う。
小津は数秒思案してからダメになってもよい予備のPCにそのファイルをコピーした後、ヒューマノイドにはクリーニングプログラムを走らせて寄生していた隠しファイルを削除した。
「Pjはプロジェクトの略で、プロジェクト・シュラウドと読むのだと思います」
「シュラウド…聞いたことないですね」
「死体を包む布のような」
小津がそういうと、久我はあからさまに嫌そうな顔をした。
「死体…えぇ?そんな意味なんですか?なんか不吉だなぁ…。え、ウィルス?そんなのがこの子に感染してるんですか?」
「あ、ウィルスと決まったわけじゃ…、えっと今クリーニングプログラムを走らせたら削除できました。念の為、一週間前に依頼した業者さんの名前を教えていただいても良いですか?」
久我に聞いて業者の名前を教えてもらう。
すると、部屋の扉からノックの音が聞こえ、ホテルのコンシェルジュのような制服を着た女性が現れた。
「小津さん、すみません。外でドライバーの方がお呼びです」
「ドライバー?タクシーなんて依頼していません」
「なんでも緊急と言われていて…」
コンシェルジュが言い終わらないうちに小津は端末を確認する。確かにこの部屋は電波がつながりづらい。恐らく壁面に電波シールド素材が使われているためだろう。久我には後で連絡する旨を伝えて、急いでホテルの入り口に向かう。
『ナギサ様から緊急信号を受信しました』
部屋から出て電波が繋がると同時に、装着しているイヤーカフからフレイヤの声が聞こえてきた。
「なんだって?!」
歩きながら小津は思わず声を上げる。すぐに周囲の視線に気づいて軽く咳払いした。
「何があったんだ」
声を抑えてそう言いながら、既にホテルのエントランスで待機していたタクシーの後部座席に乗り込む。運転手は小津に向かって会釈すると、すぐに車の発車ボタンを押した。
フレイヤは小津専用のガーディアンAIだ。ヒューマノイドのようにボディは持たないが、予定の管理や雑用は大抵フレイヤが勝手にやってくれる。このタクシーもフレイヤが手配したものだ。
そして社員からの緊急信号は、メッセージを送る余裕がないが何らかの理由で危険が迫った時に自動で送信される信号だ。だから詳細はわからないものの、受信した時点で全てを投げうってでも救援が優先される。
まだ事情が飲み込めていない小津だが、助手席の後ろにつけられているモニターを見て緊急性を理解した。
渋谷駅前の映像が流れている。ドローンによって空撮されているが、かなり混乱していることが一目瞭然だ。
「これは…」
『渋谷でヒューマノイドの自爆テロがありました。ナギサ様はそれに巻き込まれた可能性が高いです』
「いつ?無事?」
小津は短く問いかける。前に座る運転手とミラー越しに目が合うが、お互いすぐに逸らした。
『小津、やはり今現場に向かうのは』
「僕の質問に応えるんだ。フレイヤ」
『…了解。爆破テロが起こったのは十一時二十七分。その直後のドローン空撮映像の中にナギサ様を確認しました。映像の様子から生存の可能性は高いものの通話はできないようです。何度か試みていますが応答はありません』
生存の可能性は高い、と聞いて小津は取り敢えず胸を撫で下ろす。フレイヤがそういうなら生きてはいるだろう。今はそれで十分だ。
ようやく座席の背もたれを感じることができた小津は、次に時計を確認する。爆破テロが起こってから六分が経過しようとしていたところだった。
ナギサは小津とは比較にならないほど強い。それは文字通りフィジカルの面で、彼女自身が武術の達人の域にいる。更にALAを使えば屈強な男が何人集まろうとネイルを直しながらでも余裕で戦闘不能にできるはずだ。逆に言えば、そのナギサがメッセージすら送れないような状況ということだ。
小津は無意識のうちに頭を左右に振ってからはっとする。そうか、何かを振り払おうとする時こんな動作をするのだな、となぜかこんな時に俯瞰的に見ている自分がいることに驚いた。




