覇者となったある男の物語
のちに、『混沌期』と呼ばれる時代があった。
この頃、『国』というのは小さな集落の集まりに過ぎず、そこここで力を持つ部族が辺り一帯を仕切り、治めるといった形態を様していた。
『国境』といった明確な線引きはなく、川だの山だのを堺とし、故に地続きで隣り合う地を治める者たちは、自分たちの土地を如何に大きく主張するかに心血を注いだ。地を有すれば、そこに住まう者たちを守る責任も生まれる。だが代わりに彼らの生産物を我が物とし、それを元に交易で財を増やすことが出来た。
そこから得た財力は武力へと変換され、更に所有地を広げる糧と成った。
そうして多くの地や人を統べることで生まれるのは、欲。
得た権力に酔いしれ、より強大な力を欲するのはいつの時代も『人間』が内包する性質である。
結果、それは紙の上にぽつりと落ちた小さな火種のように。ゆっくりと、しかし確実にその燃焼部は広がり続け、戦火は各地を侵食して行った。
毎日誰かが誰かに殺し殺される。果て無き戦いは人々の生きる気力を奪って行く。
食べ物は既に底を尽き、戦いとは無縁であった者たちも、家族や自らの飢えを少しでも満たそうと慣れない武器を持ち、無法者のような所業に手を染める。
それを繰り返せば『人』であった頃の良心など、いつの間にか彼方へと消え失せた。
元の目的であったはずの家族が自分たちと同じような者共に命を散らされたとしても、嘆く『心』などはもう残ってはいなかった。
『人』が『人』として生きることが出来ない時代。
そんな、現世に生まれた『地獄』の中で、絶望すらも当たり前のこととして甘受しなければならない人々はある時、噂でその名前を聞いた。
この地獄に終止符を打ってくれるかも知れない。絶望を救い上げてくれるかも知れない。
そう思わせてくれるその名前は、人々の『光』となった。
例えるなら『希望』。或いは『未来』。
『人』としての意識も希薄になりかけていた者たちは、『ウェイド・コーエン』という名にその光を見出した。
のちに、彼の軌跡を記した伝記にはこう記されている。
『ウェイド・コーエンは、戦時でありながら『人』として生きることを許してくれる人だった』と。
◇ ◇ ◇ ◇
満ちた新緑を広げる稜線が知らせるのは、西部の辺境にようやく訪れる初夏の便り。裾野に広がる麦畑は金色の首をたわわに垂らし、形無き風を揺れるその身で表している。
通り風に麦穂と同じ金の髪を吹き上げられたウェイドは、赤褐色の目を細め、じわりと感じる暑さが和らぐのを感じた。
「リュート!」
張り上げた声は砦の塔の上に向かって伸びて、少しすると黒髪の少女がひょいと顔を出した。
西部の辺境にある砦は、この辺りにそれ以外何もない故に大きく見える。だが隣国と国境を接するこの要塞は最大1万の兵を収容出来る容量を備え、事実近隣にあるものよりもその存在感と共に巨大だ。
砦の北側にある見張り塔は国境に睨みを利かせ、異変に素早く気付けるよう一際高く造られている。その塔の先端は当然どこよりも見晴らしが良く、少女が特に気に入っていることを知っているウェイドは、帰還後すぐにここへと赴いた。
「リュート!帰ったぞ!」
「ウェイたん!」
手を振って無事の帰還を伝えると、リュートと呼ばれた少女は両手をブンブンと振り返し、ウェイドへと満面の笑みを向けた、ように見えた。見上げても表情が捉えきれないほど高い尖塔の縁に立ったリュートは、高所を吹き抜ける風を受け止めるかのようにか細い両腕を目一杯に広げる。
そうして躊躇いもなく、その小さな身体を宙空へと投げ出した。
見る者が居れば、口を押さえて息を飲んだかもしれない。
あるいは絶叫して、その儚い命の末路から目を背けただろう。
だが、リュートは建屋5階分はあろう高さから重さを感じさせない足取りで地面へと降り立つと、何事もなかったかのようにウェイドの傍まで駆け寄って来た。
「おかえり、ウェイたん!」
人間ではあり得ない身のこなしに、最初こそウェイドだって驚きも慌てもしたものだ。けれどリュートとの付き合いはもう20年を優に超えていて、今ではその綿毛のような動きに見惚れることすらある。
「あぁ、ただいま」
自分の帰還を全身で喜んでくれるのは嬉しいのだが、未だ呼ばれる愛称が幼少の頃から変わらない。その面映さに、ウェイドは苦笑を堪えてリュートに応えた。
「今回は早かったのね」
西部の全てが夏に近付いている今、太陽も日に日にその陽射しの強さが増している。
風はまだ少しの冷たさを含んで心地よいのに、肌がちりちりと焼かれる感触が熱い。2人は太陽から隠れるように、砦が作った影が落ちる城壁の草っ原に腰を下ろしていた。
「そうだな。本当はもう少し早く終わらせるつもりだったんだが、意外と手間取ってしまった」
「ふうん。抵抗されたの?」
「抵抗……とは少し違うな。難しい相手だったことに変わりはないが……」
ふと逸らした視線は無意識なものだったけれど、首を傾げたリュートの紫暗の双眸はウェイドの憂いを探ろうとしている。
そう言えば、戦場ではこれくらいの仕草でも臣下達に気付かれなかったので忘れていたが、リュートに隠し事自体が無意味だったと思い出したウェイドは、仕方が無いと小さく息をついた。
こればかりは何年経っても慣れないものだった。
◇ ◇ ◇ ◇
リュートとの出逢いは20数年前。幼かったウェイドが、親の言いつけを破って山に入った時だった。
大人ならそう距離もない山路も、幼児には果てしなく険しい道行となる。迷い、空腹と帰れない恐怖を覚えた幼いウェイドは、グスグスと大木の根元に座り込んで泣いていた。
『迷子?』
突然聞こえた鈴を鳴らしたような声に、ウェイドはハッと顔を上げた。
そこには染め上げられたばかりの絹糸のような黒髪に深い紫暗の瞳をした、可愛らしい少女が立っていた。
『なんで泣いてるの?迷ったの?』
ウェイドよりはいくらか年上だろうか。こんな山の中になんで、と思いつつ、問われたことに頷きで返す。
『そっか。お腹も空いたんだねぇ。そうだ、これ食べる?』
そう言って少女が懐から出したのは、子供の手の平で掴むには大きめの果実。瑞々しく、艶やかな桃色はウェイドの小さな喉を鳴らし、差し出された果実を受け取ると、ウェイドは一心不乱にそれを貪った。
この辺りに桃の木はない。気候的にも育たない。
だが、幼いウェイドがそんなことを知るはずもない。
果実の種の周りまで綺麗に食べ尽くしたら、ようやく胃の腑が鳴るのを止めた。
『……あり、がとう』
『いいよ。君、麓の村の子だよね』
『うん……』
『この山に入っちゃダメって大人に言われなかった?』
言われた。けど、ダメな理由は分からなかった。
『なんで?』と聞いても、両親は『決まり』だからとしか言われなかった。
『なんで山に入ったの?』
その問いに、ウェイドは眉を顰めて黙り込んだ。
ウェイドには、近いうちに弟か妹が生まれる。
最初、新しい弟妹が出来ることをとても喜んだ。けれど、次第に大きくなる腹を抱えた母親から『もうすぐお兄ちゃんになるんだから』と言われることが、なんだかとても嫌だと感じるようになった。
そうして今日、その『嫌だ』が限界を迎え、家を飛び出した。
でも、なんだかそれを素直に言うことは恥ずかしいと思ったウェイドは、口をつぐんで下を向いた。
が。
『ねぇ、なんで?』
無理やり視線に合わせるように覗き込んで来た紫暗の色に、ウェイドは惹きつけられた。
なんでだろう。この眼に見詰められると、隠し事をしていることが悪いことのように思える。ウェイドは数回瞬きをしたあと、ぽつりぽつりと溢すように事情と胸の内を吐露していった。
『そっか。ヤキモチ焼いたんだねぇ』
『……ヤキモチ?』
『うん。君は、生まれて来る弟か妹に、お母さんの庇護を全部取られてしまうように感じたんだよ』
『ひご……って何?』
『お母さんに守ってもらうこと。今、お母さんはお腹の赤ちゃんを守ることに全力を注いでいるでしょ?だから、君はそれにヤキモチを焼いたんだよ』
そう言われると、そうなのかもしれない。
母親は、前よりウェイドにあまり構ってくれなくなった。代わりにウェイドのことを『お兄ちゃん』と呼ぶようになった。
弟妹が出来るのは嬉しい。自分は兄が大好きだ。だから、新しい弟妹にも自分を大好きになって欲しい。
そう思っていたのに、母親の変化を嫌がる自分もいた。
『大丈夫だよ。君のお母さんは君も、赤ちゃんも、同じように愛してる』
『……なんで分かるの?』
『視えるから』
『……?』
にっこりと笑った少女の言った意味は解らなかった。けれど、その笑顔がとても綺麗だと思ったから。
ウェイドは何も言わず、うん、と頷いた。
『おうちに帰りたい?』
『うん』
『じゃあ、わたしが送ってあげる』
『ほんと?』
『うん。でも、一つお願いがあるの』
『なに?』
『わたしを、君の『お友達』にしてくれる?』
友達。なんだ、そんなことくらいなら。
『いいよ』
『よかった!わたしはリュート。君は?』
『ぼくはウェイド』
『ウェ、ウェイ、ド……うーん。言いづらいからウェイたんでいい?』
『う、うん』
こうして、ウェイドとリュートは『友達』になった。
それから、ウェイドはたまに親の目を盗んでリュートに会いに来た。その度に色んなことを話した。
生まれた妹が可愛いこと。畑仕事も手伝わせてもらえるようになったこと。兄が好きな女の子のことを最近よく話すこと。お祭りで筆頭の踊り手に選ばれたこと。
たくさん、話をした。
そうして月日が経つにつれ、ウェイドは自分が歳を重ねて行くのに対して、リュートは出逢った時から全く変わらないことに気が付いた。
そう、何も、全く。髪の長さも、服装も、外見も。
何も、変わらない。
山には入ったらダメだという決まり。桃という、あの時食べた果実がこの辺りでは採れないこと。そもそもリュートの住まいはどこなのか。そして、人間は紫暗の色を持って生まれない。
ウェイドが成長するたびに得る知識は、リュートに関する様々な疑問を抱かせた。
しかし、ウェイドはそれをリュートに尋ねなかった。尋ねたら、もう二度とリュートに逢えなくなる気がしたから。
◇ ◇ ◇ ◇
「ウェイたん?」
「あ、あぁ……」
リュートとの邂逅に気を飛ばしていたウェイドは、呼ばれたリュート独自の愛称にハッと意識を戻した。
横に座る黒髪の少女は、既に30も近くなる自分よりもずっと小柄で幼い。変わらない彼女のその姿は時折自分もまだ子供であるかのような錯覚を連れて来て、ウェイドは一瞬混乱した頭を軽く振って現実を引き戻した。
「ねぇ、何が難しかったの?」
「……説明してもリュートには解らないと思うが」
「解らなくても聞きたい。教えて」
興味深く揺れる紫暗の瞳の対象が、ウェイドの内面にあることは既に分かっている。いつだって己の傍に寄り添って来た変わらないその双眸は、ウェイドが最も信頼し、そして最も畏れるものであった。
少し迷った後、リュートの小さな頭にそっと手を置いた。絹糸のような手触りが、さらりと指を抜けて掌に馴染む。
「……分かった。とはいえ、どう言ったらいいものか……」
思い出したのは、強固に開かれようとしない砦門。
『敵』は領主、家臣は勿論、民草に至るまでもが決して屈しない姿勢で、そう大きくはない砦に立て籠もっていた。
現在、大陸を統一せんと力を広げる勢力は3つあった。
1つは北部を治めていた部族。1つは南部を治めていた部族。最後の1つはウェイドが将軍職を務める東部の部族。
東部の部族は昨年ようやく西部を落とし、大陸の中央を分断する形で勢力図を塗り替えた。
このままの勢いで大陸統一まで行くかと思われた東部だったが、危機感を覚えた南北の部族は秘密裏に手を組み、中央を挟み撃ちにする作戦を企てていた。
その情報を諜報活動にて入手したウェイドは南北の作戦を逆手に取って先回りし、要となる砦を落としては敵勢力の出鼻を挫いて行った。
これは南北の連携が所詮急場凌ぎのものであったのと、組んだ手をいつ相手が翻すか分からない、という流言を飛ばして疑心の種を南北それぞれに植え付けておいたのが功を奏した。
裏切りを恐れて慎重になる南北に間諜を放ち、あちらの動きが後手後手に回るよう工作する。作戦が上手くいかないのは互いに相手の所為だと勝手に勘違いしてくれて、使者同士が揉めると行軍の動きは更に鈍る。
その隙を突いたウェイドの軍は、特に労することなくいくつかの砦を説伏、あるいは攻落していった。
先日の攻略も、いつもと同じように収めるはずだった。
徹底抗戦の構えを見せる相手にも、ウェイドは一度は説得を試みていた。が、上手くいった試しはない。
そうなると戦いは避けられないが、どんなに堅牢であっても砦に閉じ籠っている限り終わりはやって来る。援軍や補給物資にさえ警戒していれば、こちらも多少の被害は負うけれど、勝利は時間と共に手に入った。
早々に降伏して来る相手は、全面的に信用しない。降伏条件を話し合う期間に間諜を放ち、彼らの真意を探った上で条件の内容を決める。
その際、釘を刺すのも忘れない。お前たちの狙いは把握している、と暗に匂わせることでこちらの優位を確固足るものにする。相手に後ろめたいことがあるのなら、大体はここで見せつけた絶対的な武力と情報力に諦めて膝を折った。
ごくたまに逆上して歯向かって来る者もいたけれど、『話し合い』とはいわゆるトップ会談である。頭を殺れば戦いは終わる。それは血煙舞う戦場でも、静かな幔幕の中でも同じことだった。
とはいえ、いくら敵でもウェイドは無駄に血が流れることを好まなかった。
それは部族長にも他の将軍たちにも『甘い』と一蹴され嘲笑の種にもなったけれど、それでもウェイドは手柄や戦闘を求めてここまで来たのではない。
早く『戦い』を終わらせる。そのために、文字通り死力を尽くしていた。
戦いの中で、我ながら『甘い』との自覚があったとしても、だ。
故に、今回もいつものように降伏勧告から始まった。だが送った幾人かの使者達も、取りつく島がないと言って帰って来る。だからと言って抵抗されるでなく、しかし和睦の隙も見当たらない。
彼らはただ、砦に亀のように閉じ籠り、ひたすら沈黙するばかり。
そんな、どうとも動きようがない自陣の幕の内は、いっそ攻め込んでしまおうと言う者と、根気良く和睦を勧めようと言う者が毎日論議を繰り返す。
ウェイド自身も焦れはするけれど、抵抗も示していない者を無理に攻めるに至りたくないという思いから、北西部に晴れ渡る空とは裏腹に鬱積が溜まる一方だった。
そんな調子で一月程過ぎたある朝。いつもなら食事の支度に昇る筈の煙が全く見られないとの物見の報告に、ウェイドは斥候を急ぎ敵砦へと向かわせた。
何と無く嫌な予感が募る中、自陣から見た敵砦は妙な静けさで佇んでいる。
そうして帰参した斥候の報告を聞いたウェイドは、予感が当たったことを激しく悔やみ、そして怒りのままに即席の柱へと拳を叩き付けた。
「皆、自決していた」
「じけつ……自分で死ぬことだったよね」
「そうだ」
領主を始め、その家族、家臣、領民全てを巻き込んだ自決劇は、砦内を地獄絵図にしていたそうだ。
ウェイドが足を踏み入れた時には兵達が屍を内庭へ移した後だったけれど、そこここに残る血の付いた剣や血飛沫の跡がその凄惨さを物語っていた。何よりえげつないと感じたのは、小さな幼子の手の跡が苦しんだようにのたうち回る様で、この時ばかりは誰もが言葉を発せずにいた。
「兵糧は既に底を突いていた。領民全てを抱え込んでの籠砦だ、そう長くは持たないと思ってはいたが、俺の考えよりそれはずっと早かった」
怒りは、読みが甘かった自分に対してか。それとも年端も行かぬ子供らまでをも巻き込んだ、領主に対してか。
ウェイドは自軍の兵たちに略奪や陵辱、無意味な暴力を固く禁じていた。
戦時に於いて、それは先の見えない戦いに明け暮れる兵たちのガス抜きの役割を果たしていることも承知していた。しかしそこから生まれる『恨み』は新たな火種となる。この先、いつか戦いが終結を迎えたのちの禍根は一つでも残したくないという思いから、ウェイドは軍律を破ったものには厳しい処罰を課していた。
だがそれは、あくまでウェイドの軍の中だけの話だ。
東部族の長は快進撃を続ける戦況に酔いしれ、大陸が既に手中に落ちたとでもいうような暴虐さを最近では隠そうともしなくなっていた。
結果、東部族を恐れ、嫌悪する敵も少なくなく、今回の自決劇は正に東部族に落ちるものかという、彼らの決死の覚悟の表れであった。
怒りの矛先は、或いはこの状況を生み出した東部族に対してだったのかもしれない。
「みんな死んじゃって、どうなったの?」
「戦いとしてはこちらの勝ちだ。あの砦は対北国との要でもあるから、清めた後はこちらからそれなりの者が配されて統治されることになる」
「戦いには勝ったのにウェイドが浮かないのは、人がたくさん死んだから?」
「……そうだな。死ななくていい者までもが命を落としたから、か」
「ふうん……でも、そのお陰でウェイドの軍は無傷だったんでしょ。自分で命を絶ったなら、それは彼らの選択なんだから素直に喜べばいいのに」
リュートは、物を貰ったらありがとうと言うべきだとでも言うように、然も当然と言い切った。
それは『戦』を表面だけで捉えれば、正論、なのだろう。
現に戦果を聞いた東部族の長から、機嫌良く『よくやった』と労いの言葉をかけられたのだけれど。全く喜べないウェイドの鼓膜を滑って行ったのは、たった5日前のことだ。
「リュート……前にも言ったが、人の命はそう簡単に割り切れるものじゃない。いや、割り切ってはいけないんだ」
「変なの。自分の兵が傷付いても悲しい、敵の人間がたくさん死んでも悲しい。そんなに悲しいなら戦いなんかしなければいいのに」
ぷち、と毟り取った草を、くるくると手遊びしながら口を尖らせるリュートの言い分は至極最もだ。確かに戦がなければ人は死なないし、自ら死を選ぶこともそうはない。
戦いの無い国を。
そう謳った東部族の長の言葉に、幼い頃のウェイドは強く惹かれて仕官した。
『戦い』が終結させられるなら。そう思って縋った『力』だったのだけど。
その判断が、最近揺らいでいる自覚はある。
◇ ◇ ◇ ◇
『戦火』という言葉を初めて聞いたのはいつだったか。
ウェイドが住んでいたのは東部の小さな村。辺鄙な場所にポツンとある農村だったが、四季折々に収穫される農作物は自然の恵みに溢れていて、都会のように賑やかで華々しくはないが、平和で豊かな村だった。
ウェイドは幼い頃に見た、あの村の柔らかな雰囲気を忘れることが出来ない。
ある頃から、村で囁かれる話が不穏な空気を纏い始めた。
『北の村が隣の一族にやられたらしい』
『この間来た旅人も、ずっと南の地が他所に飲み込まれたと言っていたぞ』
『ここもそのうち危なくなるんだろうか』
『うちのーー様は俺らを守って下さるんだろうか』
幼いウェイドには、大人たちが話している内容を理解することは出来なかった。しかし雰囲気に漠然とした不安を感じ取って、子供心に寒気を感じたのを覚えている。
そんな、平和ながらも落ち着かない日々を過ごしていた、晩秋のある日。
突然、『それ』はやって来た。
『全てを奪え!食料も金も女も!根こそぎかっさらえ!』
怒号が、炎が、悲鳴が、村の全てを飲み込んだ。
父も、兄も、妹も。隣の家族も、向かいの爺さまも、友達も。何もかもが赤く、赫く染まる中、ウェイドは母に促されるまま必死に逃げた。
後ろから母の悲鳴が聞こえた気がしたが、振り返る勇気は出なかった。
とにかく走った。がむしゃらに、山の方へ。どこへ、なんて分からない。ただただ悲鳴が聞こえない方へと、走り続けた。
『……ウェイたん?』
どれだけ駆けたのか。
力尽き、倒れ込んだウェイドの体は、全身が心臓になったように熱く脈打っていた。頬に感じる土の冷たさが心地良く、酸素を求める荒い息遣いが静かな森の中に響く。
頭痛すらも覚える疲労の中、不意に声をかけてきたのは聞き慣れたリュートの声。
なけなしの力を振り絞って首を巡らせれば、そこには座り込んでウェイドを見下ろす、自分と変わらない年頃の少女が居た。
『リュー……ト、……?』
初の邂逅から数年。とっくに身長もウェイドが追い抜いてしまっていたリュートが、今、倒れ込んだウェイドを覗き込んでいる。
『大丈夫?すごく疲れてる』
『うん……このまま、寝てしまいたい、くらい……』
『寝てもいいけど……そしたら、そのまま起ることは出来なくなるよ』
『……え?』
『背中。大きく斬られてるよ。気付いてなかった?』
言われた途端、背中の右肩から左の腰までを激しい熱が走った。
『あ、あぁっ、ああああああぁぁぁ!』
『痛いよねぇ。ここに来るまで血もたくさん出てる。だから、このまま寝たらもう目が覚めないよ、ウェイたん』
リュートの声が、直接鼓膜を振るわせた。
痛みに悶えるウェイドが地を掴みのたうち回る様子を、リュートはその深い紫の瞳で冷静に見詰めている。
そうして、また。
『ウェイたん。これ、食べる?』
リュートは、桃色の果実を懐から出してウェイドに手渡した。
◇ ◇ ◇ ◇
「ねえ、ウェイたん。人間って面白いね」
楽しそうな色を含んだリュートの言葉に、ウェイドは知らずのうちに眉間を寄せた。
見下ろした彼女は緑為す黒髪を揺らす肩に遊ばせて、ころころと笑っている。
「短くて弱くて儚い命なのにその扱いはすごくぞんざいで、なのに命は大事だって声高に叫ぶの者も居る。こんな生き物、人間だけだよ」
「リュート……」
「命は命、それ以上でも以下でもない。他のどんな生き物も今を懸命に生きて、産み落とした命を、子孫を慈しんで育てるだけ……あぁ、ウェイたんのお母さんやお父さんもそうだったね。人間だけど、彼らは懸命にウェイたんたちを大事に育ててたなぁ」
『大丈夫だよ。君のお母さんは君も、赤ちゃんも、同じように愛してる』
『……なんで分かるの?』
『視えるから』
随分と昔。リュートと交わした会話がウェイドの脳裏を過ぎる。
「でも、今の『世』は命を粗末に扱う人間が多い。たまにあるんだよねぇ、そんな『時代』が」
便利な言葉と知恵と力を以ってして、命を最上のものにも最下のものにもしてしまう人間って、なんて愚かで面白い生き物なんだろうねぇ。
そう言って眼を細めたリュートの横顔は、齢10歳ほどの容姿からは想像出来ないほど老成した存在感を放っていた。
「ウェイたん」
そうしてその顔のまま見上げられて、ウェイドは冷水を浴びた気分でその笑顔を真正面から受け取った。
「昔、村に送って行く代わりに『お友達』になってってお願いしたよね」
「あ、あぁ…」
「わたしね、『お友達』が居ないとあの山から出られなかったんだ。だから、あの山から出してくれたウェイたんが大好きなの」
それは、初めて聞く真実。
「リュート……お前、は……何者、なんだ……?」
「今まで聞かなかったのに、今聞いちゃう?それ」
くすくすと肩を揺らすリュートが、今、初めて見る『何か』に見える。
いや、しかし。
解っていた。
歳を取らない。ウェイド以外の誰にも認識されない。瀕死の重症を負う度に与えられる桃。そして生きながらえる自分。
リュートが何者であるか、なんて。とっくに。
「大好きなウェイたんだから、教えてあげる。戦いは終わらないよ、このままじゃ。いくらウェイたんが頑張っても、ね」
「終わらない……?」
「そう。人間の力じゃこの大地は治まらない。だって、この地に住まう数多の神々が、戦いを繰り返す愚かな人間如きにそれを許してないんだもの」
「なん、……」
告げられた真実は、あまりにも残酷で。ウェイドの口から溢れる音を奪う。
「だからね、もし。ウェイたんがこの地に平和をもたらしたい。ウェイたんがここを治めたいって言うのなら」
わたしが力を貸すことも出来るよ。
妖の響きとも神の誘いとも聞こえる旋律が、ウェイドの魂を振るわせる。人とは異なる領域にその存在を置く者だからこそ、発することが出来る音なのだと認めざるを得ない。
昔、幼き頃に深く考えず口にした一言がこんな展開を迎えるとは、一体誰が予想し得ただろう。
「どうする?……ウェイド」
差し出された小さな手の平に在る桃を、取るべきか取らざるべきか。
迷っていると不意に吹き抜けた夏風が、ウェイドの重い腕を後ろから押した。
◇ ◇ ◇ ◇
ウェイド・コーエン。
彼の名前は、混沌期の末史に突然現れた。
大陸の東部の一部を治めていた部族。家族を亡くし、幼いながらもそこに仕官を志願した彼の働きは、歳を重ねるごとに華々しいものになっていく。
彼の半生を記した伝記にはこうある。
戦孤児でしかなかったウェイド・コーエンだったが、知略を駆使し、幾千の敵をもものともしない強さから、東部族の将軍の1人にまで上り詰めた。
不死身とも思える奇跡の回復力で幾度も死地から蘇り、常に軍の先頭に立って味方を鼓舞し続けるその様は、日を追うごとに『彼』自身に忠誠を誓う者を増やして行った。
今のこの『乱れ』を治めるのはウェイド・コーエンなのかもしれない。
誰もがそう囁く中、ある時、東部族の長が何者かに殺された。
当時、大陸統一に王手をかけていた東部族ではあったが、未だ戦乱は収まりを見せず、ここで頭を『殺された』となると身内の士気にも影響が計り知れず、混乱の隙を南北部族につけ込まれるかもしれない。
そう考えた東部族の軍部は殺された『長』を病死とし、同時に臣民の忠誠と信頼を得ていたウェイド・コーエンを『一時的』に東部族の長に据えることにした。
直系の息子はまだ幼く、そしてウェイド・コーエンは東部出身ながら血筋もはっきりしない戦災孤児。傀儡の『長』として、そして『大陸統一』の旗印として、ウェイドは彼らにとって良い生贄であった。
彼らの誤算は、ウェイド・コーエンに付き従う者たちの忠誠の度合い。自分たちに向けられていたものと、ウェイド・コーエンに向けられていたそれを同じと見誤ったことが、その後の彼らの運命を決めた。
ウェイド・コーエンは実質的に東部族を率いる者として『覇者』の二つ名を伴い、最終的に大陸統一を果たした。
始皇帝と呼ばれた彼の元には、常に一羽の鴉が寄り添っていたと言われている。
漆黒の羽を持つ鴉は彼から『リュート』と呼ばれ、戦場の中でもウェイド・コーエンから離れようとしなかったという。
きっと、神が彼に遣わした『戦神』の化身だったのだ。
当時、戦場でどんな深傷からも生還を果たしたウェイド・コーエンを目の当たりにした者たちは、『混沌期』に終焉をもたらした男への推測を、確信を持って崇め伝えていた。
◇ ◇ ◇ ◇
「リュート。戦神の化身だとさ、お前さん」
「戦神さま、怒らないかなぁ」
息子に次代を譲り、全てから解放されたウェイドは、いつかの砦塔よりもずっと高く建てられた皇城の塔の先端に立っていた。
見下ろす城下には果て無い街並みが広がり、無辜の民たちが『平和な日常』を謳歌している。
その様は昔ウェイドが育った村とは比べ物にならない規模と賑やかさであるのに、なぜかあの柔らかな雰囲気を彷彿とさせる。眩しそうに目を眇めたウェイドの肩に、一羽の鴉が降り立った。
「儂にはお前さんがずっと少女のままに見えていたんだがな。それがお前さんの本来の姿か」
「そうであり、そうでもない。どちらもわたしよ。『人間に視える』ものなんて本質の欠片に過ぎないんだよねぇ」
今なら解るでしょ?ウェイたん。
そう言って笑った鴉に、ウェイドは違いないと肩を揺らして笑みを溢した。




