最終話 6年後の偶然
「いっけね、遅刻した!」
水野航基は焦っていた。
今日は楽しみにしていた大学の講義が始まる日である。
中高6年を開成で過ごし、そのまま東大にストレートで合格できた。
どんな講義が行われるのか心待ちにしていたのに。
最初から遅刻なんて格好悪すぎる。
「すいませーん」
キャンパス内の人混みを縫う。
高校とは違ってもっと人が多い。
新入生を迎えて特に活気がある時期だ。
その中を急いだ。
どうにか間に合いそうだった。
体が不必要に温まっている。
陸上部で鍛えた脚力が無ければ絶対遅刻していただろう。
汗臭くないかなと心配になったが仕方ない。
"天井高いなあ"
大講義室に入る。
既に半分以上の席は埋まっていた。
比較的に空いている前の方へと移動する。
一人の女の子の隣が空いていた。
声をかけた。
「すいません、ここいいですか」
「あ、はい。どうぞ」
女の子は快諾し、少し横にずれてくれた。
礼を言い水野が腰を落ち着けた時だった。
その女の子から視線を感じた。
「ええと何か。やっぱりこの席、友達が来るから駄目とか?」
「そうじゃなくて。見覚えあるのよね、あなたの顔」
逆ナンかと一瞬思ったがそんなわけもないだろう。
首を傾げ相手を観察する。
黒髪ストレートの小綺麗な顔立ちの子だ。
パステルカラーのブラウスに青のジーンズというさっぱりした服装。
ちょっと吊り目で気が強そうな印象がある、と思った時。
記憶のどこかに引っかかるものがあった。
「……もしかして東雲さん?」
「あ、やっぱり。水野君かー。久しぶりー」
疑惑は確信へと変わった。
間違いない、ソニックスで共に学んだ東雲花鈴である。
年齢相応に大人びてはいるが面影があった。
「君、確か豊島岡行ったって聞いたけど。東大受けたんだな」
「無理めって言われたけど何とかなっちゃった。ぶっちゃけ中受の方がしんどかったよ」
「おめでとう、って僕が言うのも変だけど」
「ありがと♪」
「で。この講義受けようと思ったのは同じ理由かな」
「多分そう。担当講師の名前見て即決しちゃった」
「そうだよな。縁があるんだろうね」
「え、君と私の間に?」
「違う! 僕らとあの人の間に!」
「やだむきになって。もしかして照れてる?」
「キャラ変わったんじゃないか?」
他愛も無いことを話しているうちに時間は進んでいたようだ。
講義の始まりを告げるチャイムが鳴った。
鈴の音が深く響く。
自然と全員が静かになった。
視線は前の教壇に。
一瞬、全ての音が消えた。
カチャリと静かにドアが開いた。
一人の男性が入室してきた。
濃いグレーのスーツを着こなしている。
黒い革靴がコツコツと床を鳴らした。
少し茶色みを帯びた癖っ毛のある髪は水野も東雲も知っている。
男性が教壇に立った。
背筋をすっきりと伸ばし、全員を見渡す。
「おはようございます、皆さん。この線形代数学の講義を担当する市村悠人です。よろしくお願いします」
† † †
教壇に立ち授業をするのは久しぶりだ。
ソニックスで教えていた時以来か。
もっとも立場が違うか。
あの時は塾の講師。
今は大学の准教授だ。
6年前、僕は思い切って塾を辞めた。
その後大学院で数学を学び直した。
社会人枠で入り、運良く論文が認められた結果、今年から准教授となれた。
これはかなり幸運な方だと思う。
その幸せを噛み締める。
"過去から逃げなかった自分へのご褒美かな"
一度は捨てた数学の道へとまた戻った。
平坦な道ではなかった。
ブランクもあったし安定した収入も捨てた。
けれど、それ以上に喜びが勝った。
これだ。
これが僕がやりたかったことだ。
自分が一番好きと言える世界に思い切り浸れること。
自分は何者かと自信を持って言えること。
胸を張り視線を全体へとやった。
講堂の大きな窓から春の陽射しが差し込んでいた。
その時、前の方の学生に一瞬目を惹かれた。
男子と女子の二人組。
はっきりとは思い出せないけど、どこかで見かけたような気もする。
その二人の事を頭の片隅に置く。
今は講義に集中だ。
僕は数学者として生きていく。
ゆっくりと口を開いた。
「それでは授業を始めます」
ご高読ありがとうございました。




