第一話 天王山の夏を越えて
「それでは授業を始めます」
いつも僕はこの一言から授業を始める。
この仕事、つまり塾講師を始めた時からずっとそうしてきた。
意識するわけでもない微妙な癖だ。
だけど悪くない。
授業という単語と共に背筋が伸びる気がする。
不思議なものだ。
「今日は割合をやります。5年生でもやったし6年の最初にもやったね。この夏期講習がおさらいできる最後の機会です」
心持ち抑えめのトーンで話す。
目の前には十数人の生徒がいる。
全員まだ小学6年生だ。
幼さが残った顔は可愛げがある。
だが同時に受験生でもある。
あと半年もすれば志望校の試験会場に臨んでいるだろう。
立派な中学受験生として。
「それではテキストを開いてください。1P目の例題から」
バサリという音、開かれるテキスト。
真剣な眼差しが問題に注がれる。
鉛筆を走らせる微かな音が重なっていく。
そうだ。
小さくても彼らは受験生なのだ。
二度と戻らない夏休みを勉強に捧げる覚悟で今ここにいる。
その熱意に応えたいと。
心底思った。
† † †
ソニックスという塾がある。
中学受験界でトップを走る塾だ。
その自由が丘校で僕、市村悠人は働いている。
今もちょうど本日の問題の解説を終えたところだ。
生徒達の顔からふと緊張が抜けるのが分かる。
僕も肩の力を抜いた。
塾の授業は疲れるものだ。
講師も生徒も。
「それでは今日はここまで。明日また算数の授業があるので、それまでに復習しておいてね。でないと授業前テストで酷い目に遭うぞ?」
「ひでー」
「鬼だー、イッチー」
僕の注意に生徒達から反論が上がる。
とはいっても笑顔混じりだ。
これまで相当の勉強量をこなしてきた精鋭達だ。
今更動じることはない。
「いつものことだろ。それに君達なら出来る」
軽くかわしホワイトボードを消した。
生徒達が次々に立ち上がり、教室を出ていく。
軽い雑談混じりなのもいつものこと。
小学生らしい旺盛なエネルギーには圧倒される。
「若いなあ」と苦笑して振り向いた時だった。
二人の生徒と目が合った。
「どうしたのかな?」
「えっと、この問題について聞きたくて」
「私も! 市村せんせーに質問!」
二人同時に声を上げられても困るんだけどな。
男の子と女の子が横に並んでいる。
先に声をかけた男の子の方を優先しよう。
勉強にレディファーストは無い。
「水野君からにしようか。ただし一問だけだよ。それ以上は質問教室に持ってきて」
「大丈夫です。さっき解いていた最後の問題、この3種類の濃度の違う食塩水を混ぜるやつが分からなくて」
男の子がテキストを開いて僕に見せた。
彼の名前は水野航基。
算数を得意にしており、よく質問にもくる。
メタルフレームの眼鏡が似合う秀才タイプの少年だ。
「あ、それ私も聞きたかった問題だ。一緒に聞きたいですー」
女の子が横から覗き込む。
「なんだよ、後にしろよ」と水野君が言ってもお構いなしだ。
彼女の名前は東雲花鈴という。
見た目は割とお淑やかだが性格は勝ち気だ。
それを知っているからだろう。
水野君もすぐに諦めた。
僕も二人まとめて解説出来る方が楽だ。
「じゃあいいかな。これはまず食塩水Bから200gを食塩水Aに移して混ぜているよね。いつもどおり図にしていこう」
説明と共に水野君のノートに書き込む。
割と複雑な問題なので図が無いと難しい。
算数の文章題を解くコツだ。
いかに問題文を読み解き、自分の解きやすい型にはめ込んでいくか。
「――と、こうやってBの濃度が分かれば」
ここでわざと一拍置いた。
水野君がパッと顔を輝かせる。
閃いたらしい。
「そうか、同じようにして食塩水Cの濃度も逆算できそう」
「さすが水野君。速いね」
「……あ、そっかあ。同じことしてるもんね。分かったかも」
東雲さんも納得いったようだ。
水野君にはやや遅れを取るが彼女も上位クラスの一員だ。
とはいえ単元ごとにむらはあるのだが。
「市村先生、ありがとうございます」
水野君が礼を言う。
礼儀正しい子だ。
「市村せんせー、すごい教え方上手いですよねー。ありがとっ!」
東雲さんもいい子なんだが。
大人しくはない、かな。
「お前さ、教えてもらったんだからちゃんとお礼言えよ」
「いいじゃん、ありがとうって言ってんだし」
「いい、いい。さて、今日はここでお仕舞だ。あとは家に帰って復習しなさい」
二人をなだめ教室から追い出し、僕も教室を出た。
廊下の窓からは夏の夕陽が差し込んでくる。
エアコンで冷えた空気に斜めに橙色の熱が差していた。
受験生の天王山たる夏期講習のある一コマ、と言ったら詩的過ぎるか。
大学卒業後、この塾の講師になって6年になる。
ノスタルジーに浸るのは早過ぎるだろうか。
いや、それは誰にも分からない。
僕の内面を誰が分かるのだろうか。
自分自身ですら曖昧なのに。
中学受験という世界を知らないわけではなかった。
僕自身、中学受験の経験者だったからだ。
小学生が相当量の勉強を積み、2/1当日を迎える。
その過酷さを知らないわけではなかった。
だが今なら言える。
あの本人の努力の裏側で本人以外の要素が積み重ねられていたことを。
教える側に立って初めて分かった。
今も講師達のミーティングに出て実感している。
「今日の算数の復習テストの結果は?」
「64点でした。単元が数の性質ということを考えればまずまずじゃないですか。苦手の子多いですしね」
「もう少し高くてもいいと思うけどね。50点割った子をピックアップして」
「天体はやっぱり難しいかな。あと2回の授業でどこまで教えてあげられるか」
「好きな子は好きですけどね。星座とかめちゃくちゃ覚えてるし」
「物語文の選択問題は根拠を持って選ぶように何回も言ってるんだけどなあ」
「男の子で苦手にしている子多いですよね。女の子の方がませている分、登場人物の感情の起伏に敏感だ」
「もう公式的に頭に叩き込んでいくのも一つの手ですよね」
「社会は地理、歴史、公民と3分野総ざらいするけど公民がいまいちだね」
「まだやって日が浅いですし。6年になってからですしね、他の二つと違って」
各教科の講師の声が聞こえてくる。
学校とも違うこの独特の空気を何と言えばいいのだろう。
合格者数を叩き出さねばならないノルマがあるという一方で。
塾には塾なりの生徒に対する情熱があるというのも事実だ。
そして僕もその塾の一部として機能している。
「市村先生」
「はい」
呼びかけられた。
反射的に声の方に向き直った。
校舎責任者の細川先生だ。
細い鋭い目が僕に焦点を合わせている。
「夏期講習の調子はいかがですか。最上級クラス担当ということで緊張もされるでしょうけれど」
「はい。今のところは順調です。特に問題のある生徒もいません」
「そうですか、それは良かった」
「ええ。今日も授業後に質問にきた子がいましたし」
「ほう、誰かな」
細川先生の声の調子が変わった。
どこか面白がっているような響きだ。
「水野君と東雲さんです。授業の最後にやった問題が分からなくてと」
「ああ、あれは難しいからね。そうか、そうか。そうやって粘り強く難問に取り組む姿勢を見せてくれると嬉しいね」
「はい、そうですね。教えがいがあります」
返答しながら二人の顔を思い出す。
少し付け加えておく。
「水野君は算数については心配ないですね。アドバイスを素直に受け入れるし理解が速いです」
「そうだね。5年の頃から頭角を現してきたよね、彼は」
「東雲さんはセンスはそこまでではないです。でもガッツがありますね。粘り強いというか」
「うん。彼女はいいよ。得意科目は国語だけど算数も伸びると思う」
さすが細川先生。
生徒のことをよく把握している。
もっともこれくらいは出来ないと校舎責任者は務まらないのだが。
「優秀な生徒を預かり責任を痛感しています」
「はは、まあそう堅くならずに。市村先生の授業は評判いいから大丈夫です。塾全体の看板講師も狙えるんじゃないですか」
「いや、そこまでは」
苦笑でかわした。
誉められるのはもちろん悪い気分ではない。
悪い気分ではないが、だが。
違和感が胸の奥で僕に噛み付いた。
"この先ずっと塾のせんせーでいるのかい?"
その囁きを奥歯で噛み殺し笑顔を作る。
細川先生は「じゃあまた」と言って去って行った。
周囲のざわめきを振り払う。
コーヒーサーバーのスイッチを押した。
コポコポという音と共に紙コップにコーヒーが注がれていく。
最後まで抽出が終わり、小さな黒い水面が揺れた。
"将来どうするかなんて"
コーヒーを喉に流し込んだ。
安っぽいカフェインの刺激が脳に心地よい。
"今考えることじゃない"
思考から逃げているだけだという自覚はあったが。
それでも僕は塾の講師という立場にある。
この責任をまっとうすることに集中しよう。
それ以外は雑音だ。
きっと。
† † †
夏期講習が終わるとより実戦的な演習が主になる。
具体的には志望校ごとの演習が入るのだ。
各学校ごとに入試問題には癖がある。
その癖に合わせた対策をしないと合格は掴めない。
各塾ともこの志望校別特訓を売りにしている。
無論ソニックスも例外ではない。
「市村君には男子は開成コースの、女子は豊島岡コースの算数を担当してもらうから」
細川先生が僕を見据えた。
男女ともトップクラスの学校だ。
表情を引き締め「はい」と答えた。
「言わずもがなだけど各学校の入試問題には目を通しておいて。テキストは本部から配布されるから授業前に予習を。講師にも覚悟が求められるからね」
「承知しました」
「特に開成の算数は厳しいよね。豊島岡も相当だけど」
「まあ、そうですね。とても小学生の解く問題とは思えませんね」
「ああいう問題を解く子が将来数学を志すんだろうね」
その言葉に心のどこかがズキリと痛んだ。
数学か。
僕が置いてきたもの。
置いてきたはずのものだ。
無論そんなことはおくびにも出さない。
過去を引きずっていては生徒にも失礼だろう。
だから「そうかもしれません」とだけ答えた。
中受界においてソニックスのレベルは高い。
御三家を始めとする難関校合格者数において、ソニックスは圧倒的な地位を占めている。
そもそも優秀な生徒が入ってくるというのはある。
けれども継続的に強さを発揮するにはそれだけでは足りない。
"実際に講師をやってみて思ったけど、カリキュラムがいいよな"
一つのことをまず習う。
数ヶ月すると子供は忘れてしまう。
そのタイミングでもう一度復習。
それも少し難易度を上げた同じ性質のことをだ。
これを愚直に積み重ねていく。
回を経るごとに威力を発揮していく。
以前学んだことが下地となり、さらなる飛躍へと繋がっていくのだ。
この学習方法はスパイラル方式と呼ばれている。
"だから僕ら講師も授業をしやすい"
ホワイトボードに式を書く。
問題を解説しながら「ここの部分、前に習った流水算と同じだよね。思い出せるかな?」というように過去の授業を引用できるからだ。
生徒にもメリットはある。
ここで前にやったことを覚えていなければまずいと危機感を抱く。
ちゃんと覚えていればよし、いけると自信を持たせられる。
人間は忘れる生き物だということを踏まえた学習方法ということだ。
「――以上で今日はおしまいです。次の授業までに復習しておいてください」
第一回目の開成コースを終えた。
初回なので特に緊張した気がする。
生徒達を見送っていると一人の生徒と目が合った。
水野君かと気がついた時には向こうが声をかけてきた。
「先生、ありがとうございました。すごく面白かったです」
「そう思ってくれたら僕も頑張った甲斐があるよ。どう、開成の問題。難しいだろう」
「はい。さすが最難関校だなって思いました。でも、うん。挑みがいがあるなって」
眼鏡越しの瞳がきらきらしている。
問題を恐れていない証拠だ。
「そうだね。知識と発想がバランスよくないと開成の問題は解けない。これからじっくり鍛えていこう」
「はい。それじゃあ失礼します」
頭をぺこりと下げて水野君が去っていく。
見送りながら何となくホワイトボードを見つめた。
さっき解いた問題はまだ消していない。
――ああいう問題を解く子が将来数学を志すんだろうね
不意に細川先生の言葉を思い出した。
だとしたら水野君は数学を志すのだろうか?
いや、よそう。
僕が考えることじゃない。
秋の日々は一日一日確実に過ぎていく。
さながら落ち葉がひらひらと舞うかのようだ。
徐々に近づく本番。
それに合わせるかのように塾の雰囲気も真剣さを増してくる。
「前の授業の復習テストを甘くみないこと。この時期の通常授業はこれまでの総まとめです。各志望校の過去問だけが勉強じゃないよ」
あえて厳しいことも言う。
つまずいた時こそ基礎なのだ。
この時点でトップクラスの生徒なら、基礎の積み上げは概ね出来ている。
けれどあくまで概ねだ。
完全にどの単元も出来ている者はほとんどいない。
中には4年の頃に習った基本的な単元を忘れている子もいる。
例えば、ほら。
「植木算忘れてしまったかな?」
「お、思い出したもん!」
僕の指摘に東雲さんが必死になる。
間違えた問題に指を走らせた。
「道の両端に木を植えているかどうかをちゃんと問題文読んで確認しないとダメ」
「そうだね。シンプルだけど見落としがちだから気をつけて」
注意はしているのかもしれないが小学生だ。
ケアレスミスは減らせても0には出来ない。
その都度こちらから指摘して自覚させるしかない。
東雲さんは「はあー」とため息をついた。
「算数って難しいなあ。出来れば勉強したくない」
「そうか。じゃあ一つ面白い話をしてあげよう」
「面白い話?」
スマホを操作し一枚の写真を映し出した。
雪の結晶が画面に現れる。
「見ての通りこれは雪の結晶なんだけどね。この六角形の結晶を拡大して見ると、先端も同じような六角形なんだ。その六角形の先端も更に小さな六角形となっている」
「はい?」
「自然界にはこのように各部分が同じ形をくり返して結果的に全体が同じ形になっている構造がたくさんある。入道雲、枝分かれした樹木、人の血管などもそう。こういう性質の図形をフラクタル図形というんだ」
「す、すごいですね?」
東雲さんが戸惑っているのは分かる。
算数と関係ない話題にしか思えないのだろう。
でも実際のところ関係はあるんだ。
「代表的なフラクタル図形にコッホ雪片やシェルピンスキーの三角形があるんだが。このコッホやシェルピンスキーという人達は数学者なんだよね。コッホがスウェーデンの数学者でシェルピンスキーがポーランド」
「数学って算数の難しいやつですよね。その学者さんがこういうの見つけたんですか」
「そうだね。だから算数、ひいては数学はこういった形で自然の中に溶け込んでいることもあるんだよ。今は楽しくないかもしれないけど、まあ小噺程度に覚えておいてもいいんじゃないかな」
「あ、はい」
すぐに納得できるものではないだろうけど。
でも単調な受験勉強のアクセントになればと思った。
それだけだった。
だから東雲さんの言葉には意表を突かれた。
「市村せんせー、数学好きなんですねー」
即答は出来なかった。
自分の中の複雑な感情が返事を妨げた。
「――そうだね、うん」
できる限り不自然さを隠したつもりだけど。
あまり自信は無かった。
† † †
その日の授業を終えて帰宅した。
シャワーを浴び簡単な夕食を摂る。
一人暮らしのアパートだ。
誰に干渉することもされることもない。
数学好きなんですねー
なんてことはない言葉なのに。
胸がまだざわめいている。
視線を本棚にやる。
そこに並んでいるのは数学の本だ。
大学時代に使っていたものがほとんど。
一冊取り出しパラパラとめくる。
クロソイド曲線についての記述が目に飛び込んできた。
自動車が一定速度で走行しているとき、一定の速度でハンドルを回した時の車の軌跡のことだ。
この曲線上ならば乗っている人の体に負担をかけない。
だから高速道路のカーブやジェットコースターの垂直ループにも利用されている。
"昔はこういうものばっかり読んでいたっけ"
ページを綴じて本を元に戻す。
胸中を満たすのは何とも言えない感情。
あえて命名するならば郷愁と悔恨だろうか。
"あのまま大学に残っていればよかったのかな"
数学は好きだった。
大学で専攻として選び、そのことには満足している。
出来ればそのまま数学研究の道に進みたかった。
だが研究者の門は狭い。
仮に残れたとしても大学助手の給与は極めて安い。
生活をリスクに晒す覚悟まではなかった。
"決断が遅かったかなあ"
缶ビールのプルタブを引いた。
苦味が先行する液体を喉へと滑り込ませた。
血中のアルコール濃度が上がるのを自覚した。
早めに就職活動に舵を切るべきだったのか。
いや、ぎりぎりまで数学者としての道を探していたんだ。
結果として諦めて今は塾の講師をしていたとしても。
それは単なる結果だ。
自分の意思で選んだ受け入れなければいけない事実だ。
「……僕は人に教える資格があるのかな」
ぽつりと呟きまたビールを一口含む。
答えが出ない自問ならば飲み下すしかなかった。
ソニックスに運良く入社して一応それなりの評価は得ている。
教えること自体は好きだ。
このまま勤め続けるのも悪くはない。
そのはずなのに。
今夜は中々酔えなかった。




