47話 無邪気への冷水
三人で昼食を食べ終わり、まだ昼休みの時間も余っていたのでお喋りの続きでもしようかな、と思っているとマリーが急に席を立った。
「……ごめんなさい、わたし、用事があるので、今日はこれで……」
そう言ってマリーは足早に食堂を後にした。
用事……だから食堂に来た時からソワソワしてたのかな……?その時のわたしは呑気にそんなことを考えていた。その無邪気へ冷水を浴びせられる事になるとは知らずに。
「普通科ではどんな勉強をしてるの?」
「普通科では文字の読み書きは一通り出来る生徒が揃ってますから、一般教養と呼ばれるものや王侯貴族への理解を深める授業などが中心ですかね」
この世界での識字率はそれほど高くはない。王族や貴族であれば別だが、平民が読み書きを習うという事は滅多にない。その日その日を過ごすだけで精一杯で、教育を受ける事まで手が回らないのだ。
だから、平民で王立学院に入学しようと思える人はひと握りで、その中で試験に合格して実際に入学出来た生徒は更にひと握りだ。
今、自分の置かれている環境が、その有り難さが、わたしは恵まれていたのだと、改めて思い知らされる。
「騎士科の皆も読み書き覚えるの大変って言ってたね」
「騎士科への志願者だけは、筆記試験ないですからね……」
騎士科の皆は毎日あんなにキツイ訓練をした後に読み書きの授業までして、本当にすごいと思う。わたしだったら筋肉痛でペンすら握れないし、疲れで居眠りしてしまいそう。
「ドニも時間があれば皆に読み書き教えてるって言ってたなぁ……」
ドニの名前を呼ぶのが、なんだか懐かしくなった。今朝会ったばかりなのに、何故かもうずっと会えていないような、そんな気持ちになった。
「あたし、お茶のおかわりもらってきますね」
アンナさんが席を立ち上がる。わたしもそれに続こうと席を立とうとすると、アンナさんに制された。
「あたしが行ってくるので、エマさんはここにいてください」
アンナさんは人懐っこい笑みを浮かべて、ティーカップをふたつ持ちながらその場を後にした。
こんな事を思ったら失礼かもしれないけれど、アンナさんの笑顔を見たらドニの事を思い出した。アンナさんは女の子だし、男の子を思い浮かべたなんてきっと嫌だよね……。
でも、アンナさんはドニの事が好きなのにお昼一緒じゃなくていいのかな……?
もしかして、誘うのが恥ずかしいとか……!?今までは皆で一緒に食べる流れが自然と出来ていたものね……!好きな人を誘うのって勇気がいるよね!
そんなわたしの考えを嘲笑する様に、パシャっと頭の上で軽い音がする。突然頭がキンと冷える。頭から顔、首を伝って背中までヒヤリとしていく。
何が起きたのか、理解が出来なかった。
「あら、手が滑った」
突然、なんの脈絡もなく声が降りかかる。ポタポタとテーブルに水が滴り落ちる。
「ごめんなさいね?あまりにも不体裁だから驚いてしまって……」
予想外の出来事に反射的に振り向くと、華美なドレスを纏った教養科の生徒たちが立っていた。深い緑色がグラデーションになって広がっている美しいドレスの女生徒が、華奢なグラスを傾けて持っていた。
その時初めて、水を掛けられたのだと気づいた。
でも一番不思議なのは、水を掛けた本人が目を見開いていたことだ。驚きの表情のまま固まったかと思うと、直ぐに扇を取り出して口元を隠した。
「……あまり目立つ行動は避ける事ね」
それだけをポツリと呟くと、ぞろぞろと色とりどりのドレスを着た女生徒たちは食堂から出ていった。
「えっエマさん……大丈夫、ですか……?」
アンナさんが泣きそうな顔をしながら駆け寄り、ハンカチでわたしの髪を拭いてくれた。その手は微かに震えていた。
アンナさんは教養科の生徒が苦手みたいだし、怖い思いをさせたのかも。
「ありがとう、アンナさん。わたしは大丈夫だよ。びっくりしたね?」
わたしも自分のハンカチを取り出して、濡れた頭や制服を拭く。
わたしに水を掛けた女生徒は、自分でやったのにも関わらず驚いていた。あんな台詞を言っていたから、おそらく故意に水を掛けたはず。
だったら、なぜ驚いたのだろう……?
もしかして、見間違えた――?
目的の人に水を掛けたと思ったのに、振り向いたら違う人だった。だからあんなに驚いていた――?
じゃあ、誰と、見間違えたの……?
気付きたくない。わかりたくない。
珍しいピンク色の髪のわたしと、見間違えたならそれは
――マリーだ。
嫌がらせはまだ続いていたんだ。だからマリーは一般生徒の居る大広間で食事をするのに、あんなにソワソワしていたんだ。
気づかなかった。
中庭で昼食を食べていた時は、わたしたち以外居なかった。特別ラウンジでは、一般生徒の立ち入りは禁止されていた。
きっと今までも、ひとりの時に嫌がらせを受けていたんだ。だからアンナさんが席を外したのを見て、わたしに水を掛けたんだ。
全然、気づけなかった。
勝手にマリーと仲良くなった気になって、マリーが悲しんでいる事に気づけなかった。マリーを助けてあげる方法があったかもしれないのに……。
わたしは、気づいてあげる事もできなかった。
もう水は拭ききった筈なのに、体の芯は冷えたままだった。




