38話 分厚めの辞書
「エマ!大丈夫ですか!?」
突然わたしが水を被ったせいで、ザワザワと戸惑いが広がる。そんな喧騒の中、小さな悲鳴を上げてマリーが駆け寄ってきた。そんなマリーを「濡れちゃうよ」と言って近づくのを制す。
水を吸った髪や服が張り付いて、体温が奪われぶるりと震える。
ジルベール様が感情の読めない表情でこちらに距離を縮め、わたしの目の前で手をかざした。
瞬間、全身を暖かい風が吹き抜ける。濡れていた全身が、一瞬で乾いていた。
「……すごい」
髪も服も、完全に乾いている。それなのに熱いとは感じなかった。完璧な熱と風のコントロールに感服して声が漏れる。
わたしが全身をキョロキョロ確認していると、不意にジルベール様がわたしの髪に触れる。
わたしの髪が乾いてるのか確認してるのかな?ジルベール様ほど魔法が得意でも、不安になる事はあるんだ……。
その日の授業は魔法玉が作れただけだったが、今まで出来なかったことが出来る様になり、満足感に浸りながら終了になった。
魔術演習場の出口を見ると、今日もアンナさんが迎えに来てくれていた。何故か両手で分厚い辞書を抱えて。
「アンナさん!今日も心配で来てくれたの?その辞書は?授業で使ったの?」
「いえ……心配で……」
そう言うアンナさんは、辞書を構えながらキョロキョロとしていた。わたしも周りを見渡すと、魔術演習場から帰る生徒や先生に質問している生徒が居る。そしてジルベール様はフレデリク様とクリスチアン様、その傍らにはマリーが居て、何かお話をしているようだった。
そんな代わり映えのしない光景で、何故アンナさんが警戒しているのかと疑問符が浮かぶ。謎の行動をするアンナさんと合流してきたマリーと一緒に、昼食に向かおうとした。すると、ジルベール様に呼び止められる。
「……混乱させてしまってすまない」
「――え?」
ジルベール様が落ち込んだ様子で、申し訳なさそうに目を逸らしている。なにか深刻な事があったのかと、不安になる。
「髪飾り。その……僕のせいで、混乱させてしまった様だから……」
「そんな……わたし嬉しかったです。お陰で魔法玉も成功しました」
わたしは何だそんな事か、と安心する。それに、ジルベール様にも迷惑が掛からなかったようでホッとした。
隣で見ていたアンナさんが、控えめに「何かあったんですか?」と聞いていたので、わたしはジルベール様に頂いた髪飾りを見せた。
「ジルベール様に、この髪飾りを頂いたの」
ジルベール様の名誉を守るために、きちんとグー先生と連名でのお礼であることも付け加える。
医療用の魔石は高価なので、それを見たアンナさんは驚愕の表情で固まってしまった。ドサリ、と持っていた辞書が重い音を立てて地面に落ちる。
マリーが辞書を拾い上げ、アンナさんに渡しながら背中を摩っていた。アンナさんは壊れた人形のように、小さな頭をコクコク上下に動かしていた。茶色のふわふわのポニーテールが揺れて可愛らしい。
マリーと何かを話して再起動したらしいアンナさんと一緒に、3人で昼食に向かった。
昼食の最中にも、やっと魔法玉を作れる事を話した。皆におめでとうと褒められたり、もっと頑張れと励まされたり、少しくすぐったい気持ちになった。
「そうだ、ドニ。これジルベール・グレゴワール様に貰ったんだよ」
そう言って髪飾りを見せた。ドニはグー先生がジルベール様のお父様だって知らないだろうから、わざとフルネームで伝える。ドニは長い名前を覚えるの苦手だから、もしかしてグー先生の名前も覚えられなかったかな?
ドニは、わたしの手の平に乗った髪飾りを見たまま沈黙した。そんなドニとは対照的に、周りは髪飾りを見ようとザワザワし始める。
今日の昼食はわたしたち以外にはドニのお友達5人だけで、レオンとニコルさんはいなかった。
「あ……そう、なんだ……」
ドニは表情が決まらないような、不思議な顔をしていた。わたしは、やっぱりグー先生の名前を覚えられなかったんだと思い笑みがこぼれた。
「ジルベール様のお父様ってね、グー先生の事なんだよ。家名がグレゴワール様」
「えっ!?そうなの!?」
ドニは目を見開き体を乗り出して驚いていた。わたしはやっぱりと思い、笑みが溢れる。
先程アンナさんに説明したように、グー先生からのお礼だと皆にきちんと伝える。やはり魔石は高価なものなので、皆髪飾りに興味津々なようだった。それでも「触ってみる?」と聞くと、萎縮して触れようともしなかった。それほど高価なものを頂いてしまった。
自分のした事とお礼が釣り合っていない気がして、今更ながら後ろめたさを感じてきた。
「そう言えば、そろそろ剣術の実技授業が始まるので、授業でも皆さんと一緒になりますね」
マリーの言葉に皆が嬉しそうに反応する。その中でアンナさんだけは不安そうにしていた。
「危なくないんですか……?」
上目遣いで、恐る恐る問いかける。あまり良くないこととは分かっているが、不安そうなアンナさんが可愛らしくて庇護欲がくすぐられてしまう。
「うーん、かすり傷程度はあるけど、大きな怪我とかはしないと思うよ」
剣術を習うのだしその位は当たり前かと思っていたのだが、アンナさんはそうではなかったらしく、とても驚愕していた。「どうしよう……」と小さく呟きながら、何故か辞書をぎゅっと抱きしめていた。
今日はアンナさんの驚いた顔をよく見る日だなぁ、なんて呑気にも思っていた。




