遠くからの藁の匂い
ある家の前で散歩の足を止めてから、しばらくが過ぎた。
足し増し足し増しで伸ばしていった古い方の家並の方を歩いていた。曇り空に雪が舞い落ちていたのは家を出る前から分かっていたが、その中を毛糸の帽子だけ被り手ぶらで歩いてみたくなったのだ。わたしが妻たちのことをそうしたものと見ているように、妻もまたわたしのそうした大人げのなさに飼いならされている。出かけるとき、「ずぶ濡れになりそうだったら電話して、迎えにいくから」と、声を掛けた。
足し増し足し増しの路地づたいを歩くのが、わたしのお気に入りだ。きちんと大規模に区画整理された道の方が車の運転が下手なわたしには合っているので住むほうはその辺りと決めたのだが、すぐの先が見つけられない継ぎ足しの継ぎ足しの路を歩いていると、この景色を作っていった同じ時間の中に戻されるような気がしてそうした道を一緒に歩くのが好きになっていた。
空からは、積もる気もない雪が相変わらず舞い落ちている。こんな天気に用もないのに暇に任せて出歩く大人などいない。同じように暇に任せて出歩く輩が脇を通ったなら不審を抱かせる気配を察して再び散歩に戻るのだろうが、それも出来ず、わたしはその家の前に立ち尽くしていた。
その家の周りにだけ藁を燃している臭いがしていた。
町屋のように隙間なく建てた家々の真ん中にその家はあった。左右のそれぞれは外壁の張替えや住まい変えのリフォームなどで建てたあとで多少の手は入っているのに、その家は建ててから先の50年どこも手を加えていないのが見て取れた。
藁の臭いはその家にだけ立っている。何度往復しても家の敷地を外れると臭いはしなくなる。「何につかまっているのか」と、1軒2軒過ぎても気にかかり、戻ってみると、やっぱりしている。食べるものを焼いている家庭の臭いではない。まして火事に至るような、きな臭いものではなかった。
遠くからの、方角を掴むのがやっとのような遠い先の圃場から風に乗って運ばれてくる稲わらの臭い。
その家の前を挟んで何度もいったりきたりしても感じるのは遠くからの稲わらの臭いだった。
売り家の看板と一緒になった空き家を眺めてみる。
不動産屋の名前と電話番号の書かれた売り家の看板は古びていない。空き家の風情は相当の時間を挟んでいるから、何かの見切りがあって空き家を売り家に模様替えしたのだろう。軒板が剝がれ、そのささくれがぶらりぶらりと垂れ下がっている。が、そうしたものより、もっと近づかなければ見えてはこない、家人や電化製品といった動きのあるものが全く停まってしまい、シぃーンの声だけで降り積もったような堆積物が辺り一帯均等に積みあがっている。
樹の年輪のようにこうしたホコリにも年月に沿った層が連なっていて、指をあてて数えると年月をきちんと教えてくれる。
モルタル地の基礎を打った肇まで辿り着くと、ちょうど40だった。
40・・・・・・・40年前。そうか、此処だったのだ。
お気に入りなどと云って本当をごまかしながら探していたのは、この家だったのだ。
40年前の私が迷って辿り着いた家は、迷子のわたしを拾ってくれた綺麗な女の人がいた家は、此処だったのだ。
わたしが5歳になった齢だ。いまはもういない母に連れられてこの辺りの、ぽつりぽつり住宅地の建て始めた新開地に初めてやってきた。
高度経済成長の恩恵は、貧乏な長屋住まいに辟易していた家族にもぽつぽつ訪れてきた。
住宅地公庫の抽選にあたってローンを組んで、新興住宅地へ転身した鈴木さんの家へ遊びにいったのだ。
櫻井さんより、いまでも「さっちゃん家」で覚えている。その家の下の女の子がサチコといって、保育園で覚える歌といっしょで周りからさっちゃんと呼ばれていたからだ。
小路の露地を挟んで、わたしの長屋ととさっちゃん長屋の濡縁が顔を向けている。
ひとりっ子のわたしは、どこの家にも濡縁づたいで上がっていった。子どものいる家もそうでない家も、ここら一帯で一番幼いわたしは、いつまでも甘やかされ面倒を見てもらう存在からはみ出すことなく、好きな時好きな家に行き、食べたいとき遊びたいときすべて勝手に振る舞って一日を過ごしていた。
子どものいる家はどこも女の子ばかりで、男の子が珍しかったことも幸いしていたのかもしれない。
ただ、さっちゃんだけは違っていた。私よりもひとつ上でしかなかったためか、幼い私の振る舞いに業を煮やして、怒ったり叩いたり泣いたり泣かせたりがいつも付いていた。
それなのに、いやそれだから、わたしは嫌いになったり好きになったりを繰り返すさっちゃん家にいくのが一番多かった。
さっちゃん家が抽選にあたった。この辺りで一番最初にマイホームを手に入れることになった。
それから引っ越すまでのことはあまり覚えていない。越した後の板戸を閉じた縁側のスナップだけがぼんやり残っている。
さっちゃんのお母さんと私の母は幼馴染で、2軒とも長屋では古株だった。
行きそびれから30を半ば過ぎてやっと婿をもらって私を産んだ母と違い、同じ婿養子でもさっちゃんのお母さんは二十歳に結婚し娘二人を授かったので、上のお姉ちゃんはわたしよりも一回り以上も年かさが離れていた。姉妹ふたりにひと回りの年嵩が挟まっていたのには何か事情があったようだが、よくは覚えていない。多分ふたりの父親に関するものだったと思う。さっちゃんのお母さんは5歳の男の子から見ても綺麗な女のひとだった。
いまとなれば、あの当時のもやもやした感じが何によるのか理解できる。
ただでさえ必要以上の眩しさを覚えていた母にとって、公庫の抽選についていた「夢のマイホーム」とのキャッチコピーは更に追い打ちをかけた。
さっちゃん家に向かうわたしにトオセンボする目でイヤイヤする母の面影が想い出される。
それでも、通りいっぺんの社交辞令から新しいさっちゃん家に母はわたしを連れて行った。
わたしがさっちゃんに逢いたいと、それを口実に連れて行ったのだ。
幼い子がそうであるように、5歳になった私は1年近く会わない相手に憧憬を繋げるほどの情操は育まれていなかった。
わたしは、表通りの商売している家の男の子の家に入り浸り、その子の持っているおもちゃと抱き合わせでその子と遊ぶのが常だった。欲張りで甘ったれなのは相変わらずだったが、同い年の男の子と遊ぶ方がさっちゃんより何倍も楽しいことの味を覚えた。
あの日は、「バスに乗せてあげるから」に釣られ出かけていったのだと思う。バスに乗ったら、窓を抱えるように前後ろあべこべに座り直して、通り過ぎる車窓を眺めことが大好きにのを母は襟首を掴むように押さえていた。しかし、その日は昼中にも関わらずバスは混み、小さな子どものお尻を埋めるだけの場所を作ってくれる親切にすがるだけ余裕しか持っていなかった。内弁慶のわたしはこんな所で我を張るだけの勇気はなく、しょげてつまらなそうな顔を向けバスのアナウンスだけを聞いていた。
あとに残された楽しみは、早押しクイズさながらピンポンブザーを鳴らすこと。しかし、それも、行儀よく仕舞ったお尻が硬くなり、事前に母から聞いていたバス停の名前は覚えていたが、そこにきて、アナウンスが「次は湊川1丁目、湊川1丁目」が聞こえても、それを合図にピョンっと向きを変え、窓枠についたブザーをTVの回答者のように一直線に押し下げる果敢さは出てはこなかった。
わたしは内弁慶なのだ。ワガママで甘ったれな分いまだその気は抜けてはいない。
だから、わたしは、仏頂面のままさっちゃん家に上がったのだと思う。
さっちゃんは居なかった。がっかりだねぇーなどと母やおばさんはいったらしい。でも、母はほっとしていたはずだ。久しぶりに会ったさっちゃんを目の前にもじもじを始める私を見つけて、「また、いつもの内弁慶はじめて」と、歯の浮くような噓を言わなくても済んだのだから。
内弁慶は可愛い顔をしていない。
小さな枯れた元は爺さんだったミイラの顔をしている。
ほっとしていた母の顔は覚えている。欲張りで甘えん坊だけは幼いままなのに5歳のわたしは大人の顔色を見抜く知恵が付いていた。
街場の子どもは早くにませる。ませるのは女の子ばかりとは限らない。
ずくなしのわたしは、それを補うようにいやらしい知恵ばかりがついていった。
どう言って新しいさっちゃん家を出たのかは覚えていない。
ふたりとも楽しいはずはないのに、いつまで経っても腰を上げない母にうんざりして、わたしは新しいさっちゃんの家からプイと出かけてしまった。小さな子どもを子どもをとして扱わない母は、「こんな初めての土地を五つの子がひとりで」と普通なら引き留めるはずの配慮が浮かばず、そのまま五つの仔を好き勝手にさせた。さっちゃんのおばさんもそのことに口を挟むむことはなかった。そんなことに構けていられないほど母の顔から目を離さずにピリピリしていたのだ。
わたしはひとり外に出た。母と一緒のときは母の身体が半分かかって気付かなかったが、空がこんなに大きいことに初めてびっくりした。わたしの知ってる空は、小路の露地を両方の長屋の屋根に隠れて真っ直ぐに伸びている縦長のものだった。少し大きな空は、通りを超えた商売をしている男の子の家に行くときに見る横幅が少し太っていた。どちらも空は、屋根やアーケードに挟まれ長く延びていくものだった。
ところが新しいさっちゃん家を出てからの空には遮るものはなく、どこまでもまん丸に広がってる。
わたしはそのことに驚きワクワクし、ほかの余計な先ほどまでガサガサざわざわしていたことをすっかり忘れ、足の進むに任せ歩いて行った。ませた街のガキは遠のいて三つ四つの幼稚さに帰っていたのかもしれない。
すぐに、ひとり身体を使って遊べる遊具のたくさん並ぶ大きな空き地にぶつかった。
ブランコ、滑り台、ジャングルジムが、大きな空き地を我がもの顔で占領している。
街場の通りにも四間幅あった大きな店舗跡の空き地があって、そこにはとってつけたようにブランコがふたつ並んでいた。が、ほかの子がヨーチエンから戻るお午までしかわたしはそれにまたがることはできなかった。景気のいい道楽息子のスカイラインが空き地の半分を占めて、エンジンを吹かす度に、遊んでる子たちは端っこに固まらなければならななった。
大きな空き地は、子どもの増えた新開地に新しく建てられた小学校で、そのときは皆んな教室にこもったお勉強の時間だった。ひとっこ一人いないグランドの端に置かれた遊具の類にわたしはムシャぶりついた。
遊具の先のグランドもその向こうの2棟4階建ての校舎や体育館もこのパラダイスと繋がりのあるものには見えなかった。
あのときの幸せより大きな幸せを、この歳になってもわたしはしらない。そしてそのあと起こった恐怖もまた同じである。
貧しかった我が家にはいまだに小さくて丸っこい白黒テレビしかなかったから、滑り台もジャングルジムもリングネットもみんな白黒色でしか見覚えがなかった。それがカラーの実物で現れ、邪魔するものが一人もいない独り占めできるしあわせ。
しあわせの意味も小学校の存在も後になってしることになるのだが、そのどちらもはじめてのそして一番の体感はそのときだった。
ブランコにのった。立ちこぎもはじめてやった。ほかの子たちがやっているのを見てたから、パラダイスを感じているわたしはいつもずくなしを忘れているのですぐにできた。
滑り台は、もっと小さな子の遊び道具だと思っていたから、周りを偵察し、誰も覗いていないのを確かめ、梯子を上った。一気にお尻を前に突き出したらスピードに引っ張られてグルグル3回回って落ちた。
目の前がグルグル廻る体験だった。
大きくなっていまはもうやってくれなくなった高い高いのスペシャルバージョンのときの興奮を思い出した。
滑り台だけを繰り返した。
5回、10回・・・・・20回
もう周りを偵察する余裕もなくなっていたからきちんと数えていたわけではないが、多分その位まわったあとだったのだろう。
小さな鐘をゆっくりと大きく叩く音がした。それが小学生たちに時限ごとの行動を促すチャイムであることは小学校にあがってからしった。
恐怖、慟哭、最期
最後ではなく、死ぬほどの本当の終わりは最期と記す。それぞれあとで知った言葉と意味だが、みんなはじめてのそして一番の体感はそのときだった。
授業が終わったのだ。休み時間が始まったのだ。時間が消化するものと覚えていない子どもたちにとって10分間は十分楽しめる時間だ。
一斉に階段を駆け下り、靴を履き替え、グランドへかけてくる。ボールゲームを覚えた子どもたちはそれぞれのボールを、まだまだ手ぶらの子たちはそれぞれのお気に入りの遊具のもとに駆けてくる。
古今東西のスペクタクル映画での合戦シーンが現れると、わたしも今でもあのときの子どもたちの声と足音が横から入り込む。
ワーでもキャーでもなく、そうしたいたいけな可愛らしい声を束にして寄りをかけて絞り上げるときの濁音と化した声だ。
わたしは逃げた。一目散に逃げた。空が丸くどこまでも続き、その先にパラダイスがあって、しあわせの言葉も意味も知らずに体感はしていたフワフワうきうきしていた普通の5歳児の気分を脱ぎ捨てた。太古の、野生の、弱い生き物であったころの習性だけで逃げた。
逃げた距離はそんなではなかったと思う。
気持ちは地球の裏側までと思っても、小学校の校庭から100メートル200メートルの先だったはずだ。
地図アプリを使えば、小学校に面した家並のかたまりの先の先、となりのとなり、ジグザグじぐざぐの回数だって4回を超えないすぐにそっくり辿っていける路。
それでも、太古まで遡った恐怖は途方もない彼方へ私を連れて行った。
パニックになった小さな子どもが道に迷った、それだけのこと。大人になるまでに、いや、こうして坂を下るまでの大人になっても、何度もそう言い聞かせても、やっぱりダメだった。
母のもやもやも小学校の遊具も、恐怖、慟哭、最期の漢字も後でしった世間のそれぞれに当てはめ、きちんと定着できたのに、あのことだけは、パニックした小さな子どもが道に迷っただけと、定着できなかった。