32 ルチアーノ王女
大理石の床に毛足の長い絨毯が敷かれ、長い廊下に途切れる事なく続いている。
現在私は、侍従と数名の護衛につれられ、王城内を王族居住区域へと向かっていた。
この場所、ロキとしては何度か通った道だが、ロクサーナとしては初めて足を踏み入れることとなる。
丁度右手に広がる中庭には、季節から外れたバラが魔法により咲き誇り、ここから先が王族の居住地であると分かりやすく示していた。
いつ見ても薔薇の咲いた綺麗な中庭を眺めながら足を進めていると、ふとその花園の奥から見知った気配を感じた。
丁度中央にある噴水の横を通り過ぎたらしい、金糸と銀糸の綺麗な髪色を持つ二人の少年。
冒険者稼業から帰ってきたのだろう。
第2王子クリスティアン殿下と、リンドビーク公爵家の長男、ユリアスである。
数ヶ月前に護衛まがいのことをして、懐いてくれた二人だ。
本当は、出来るだけロクサーナとしては顔を合わせない方がいいのだが、どうやら運悪く彼らの行き先も王族の居住区であるようで、お互いにこの歩調で行けば区画の入り口で合流する形となる。
私が歩みを遅くしたり立ち止まると周りの人たちに不自然さを与えるだろう。
故に彼らとの遭遇を避ける事は難しい。
そして当たり前のように彼らと視線が合った。
「あ、もしかして例の学園の人?」
行き先の交差する少し先で、わたしたちを認識した王子が興味を示した様に声をかけてきた。
制服を着ているので、学園の生徒であると分かったのだろう。
しかし口調は普通なのに、一瞬私に向けた視線がピリッとしたのを見るに、彼も例に漏れず私の事をバートン家越しに見ているらしい。
社交の場にあまり顔を出さない王子の耳に入る程だ。やはり悪口を叩く人間はどこにでもいるんだな。
それでも優雅に歩み寄ってくる彼らに、足を止めた私たち一行は、そろって頭を下げる。
「こんにちは、頭を上げて良いよ?僕もさっき話を聞いたばかりなんだ。貴女の名前を聞いてもいい?」
王子様らしく話しかけてくる王子が少し新鮮に感じる。
普段はこんな感じなのか。被っている猫は何匹分だろう。
「お初にお目にかかります、王子殿下。この度、国王陛下からグレイラミレス王国ルチアーノ王女殿下の側付きに命じられました、ロクサーナ・バートンでございます」
自己紹介の後、お許しをもらった通り顔を上げる。
「ロクサーナ嬢だね。うん、よろしく」
私の顔をじっと見ながら、警戒心をうっすらと纏った笑顔で朗らかに頷いている王子。
笑顔の下で私の人格を慎重に伺っているらしいが、しかし彼は私がロキだと気付かなかったらしい。
この感じ、やはり国王の勘が誰よりも鋭かっただけか。
まぁ、髪の色と長さが違って、目の色も声も違って、その上作る表情が違えば、もはやそれは別人であろう。
私も一般人のままだったら気づかない自信がある。
そんなことを呑気に考えながら、ふと王子の後ろにいる公子に視線をやると、こちらを見ていたらしい公子とパチリと視線が合い、そして彼の顔が不思議そうに歪んだ。
その何か引っかかった様な表情。
・・・あぁこの子、あの陛下と同類か。
そう直感したとほぼ同時に、彼の作る表情が驚愕に変わり、半歩足が後方に引かれた。
まぁ彼は、ロキが女であると言うヒントは持っていたので、国王の勘より幾分劣るのかもしれないが。
しかし、その不自然なふらつきに気付かない者はこの場にはおらず、皆の視線が公子に集まる。
皆からの注目に表情はどうにか隠し切れた様だが、その体勢までは持ち直せておらず、これまた不自然な形のまま固まっている。
「?どうしたの?ユーリ」
さて公子、どう出る?
私は、皆の意識が公子に向いていることを良いことに、下手に誤魔化すことなくそう視線で語りかける。
彼は、私が記憶をいじれる事をその身を持って知っている。
あんなに涙を流して拒絶したんだ、忘れるはずもないだろう。
静かでいて鋭い私の視線を受けた公子は、確証を持った上で私の意図を正しく理解したらしく、私から見ても完璧であると判断できる笑みを不自然なく作り上げた。
「ううん、なんでもないよ。夜会で見かけた顔だって思い出して驚いただけだから」
どうやらロクサーナのこともある程度は知っていたらしい。
だからこそ、あの驚き様だったのだろう。
この年齢で国の行末に関する情報収集もきちんとしていて、初め感情が表には出たものの、その失態は自身で綺麗に巻き返してみせた。
その上、国王に次ぐ勘の持ち主が第2王子の側近で次期公爵なら、この国もしばらくは安泰だろう。公爵家ゆえに国の重役職に就けないのが惜しいぐらいだ。
「あぁ、ロクサーナ嬢もあの会場にいたんだ。気付かなかったよ」
そうさりげなく毒をぶっ込んでくる王子。
ロキとして接していた時のあの少年らしい純粋無垢な素敵な笑顔は、完全に鳴りを顰めている。
彼の事をただの王太子のスペアと評価する人もいるが、同じ王の血を継ぎ、同じ環境で育ったのだから、王太子に勝るとも劣らない肝っ玉の持ち主である。
そしてどうやら王子の私の評価は、兄に上手く取り入っただけの目障りな令嬢に位置しているらしい。
まぁそうだろうな。
私だってそう思うもんな・・・。
王子の毒のある言葉に、私は特に何も言葉を返すことなく頭を下げる。
「僕たち、今からルチアーノ王女殿下に挨拶に行くところなんだけど。ロクサーナ嬢もそうだよね、一緒に行こう?」
「えぇ、畏まりました」
顎で行く先を促し、壁を何枚か感じる王子の言葉に再び頭を下げ従う。
先を行く王子の後につき私たちも歩き出した。
王子の私への態度に、そのすぐ後ろを歩く公子が内心相当ヒヤヒヤしているのを察するが、諦めろーと取り敢えず届かない念を送っておいた。
王城にある王族の居住区画は、かなり広く取られている。
この巨大な王城の中で、半分が政治を行うパブリックスペースであれば、その残りが全て王族の住まうプライベートスペースであると言えば分かりやすいだろう。
そして安全上の観点から、どこの部屋で王族の誰が暮らしているのかという情報は厳重に管理されており、上級貴族でもそれを知ることはできない。
しかしその重大な情報は、目の前を歩く王子によりロキに横流しされているため、自ずと私も把握してしまっている。
王子〜、警戒心は十二分なのに、ロキに甘々なのは少し考えた方がいいぞ〜?
まぁ宝剣を持つロキなら知ることはできる情報なのだが、それが王子の口から自主的にもたらされたというのは、いかがなものかと考えてしまう。
王子曰く、情報漏洩を警戒し、1ヶ月に一度ほど、王族たちは部屋をお引っ越しをするらしい。
それでも有限である区画の中に各々のグレードに合った部屋を何個も作ることはできないので、数個の部屋をランダムで回っている。
警備にはもちろん万全を期しているが、それでも暗殺には警戒しなければならない王族たちの気苦労は絶えなそうである。
現に王子様兄弟二人は、私の目の前で敵に害された事があるわけで。
せめて心休まるであろう彼らの家の中で襲われるような事はあってほしくない。
衛兵たち、気を引き締めて頑張ってくれ。
そんなことを考えている間に、私の情報の中で空室が多い場所にやってきた。
どうやらこの辺りをやってきた王女様の区画にするらしい。
まぁ、きっと1ヶ月後にはどこか別の部屋に移動するのだろうが。
他の場所より衛兵の多く見られるようになった廊下を暫く進み、ある部屋の前で王子が立ち止まる。
私を案内する予定であった侍従は私のすぐ後ろを歩いていたので、王子はどの場所に王女の部屋があるかきちんと把握していたらしい。
私が見ただけではどこも同じ扉に見えるが、さすがに自分の家だと部屋の違いも分かるのだろうか。
王子が扉の前に立ったのを見て、扉の側に控えていた護衛が扉をノックする。
「クリスティアン王子殿下、リンドビーク公爵令息様、並びにバートン男爵令嬢がいらっしゃいました」
『え、えっと・・・』
中から戸惑いの声が聞こえる。
イスラ言語でかつ、若い女性の声である様なので、ルチアーノ王女の本人の声であると察する。
気配を見ても、中にいるのは王女だけで、侍女は誰もついていないらしい。
まだこの国に来て数時間しか経っていない故に気を遣って一人にしているのだろうが、この国の言葉が通じない少女に呼びかけても仕方のないことだろう。なんて言っているか分からないのだから返事のしようもない。
通訳係のギルド職員も既に城を後にしたらしいし、ひとりぼっちで放置されてしまっているようだ。例のイスラ言語を話せる夫人を王女に付けておけば良いのに、ここにいないということは夫人は領地にいるのだろうか。
ユミルの影の気配もいくつか感じてはいるが、やはり手を貸すつもりはないらしい。
数拍置いても中から声がかからないのを見て、王子が意を決したように扉を開け開いた。
ふわりと香る花の香り。
安心するようにという心ばかりの気遣いからか、部屋の中にある花瓶には様々な季節の花が生けられていた。
扉の中にある部屋は、ロキとして少し前に、目の前の王子に手を引かれ入った王子の部屋、それと大きさや装飾はほぼ同等程度。
王太子の寝室の3分の2ほどの広さである。
その部屋の真ん中に置かれたソファーテーブル。
そのソファに腰掛けていたプラチナブロンドの少女が、部屋の扉が開いたのを見て慌てて立ち上がった。
『その、えっと・・・』
疲れ果てた少女は私たちの姿に完全に戸惑っていた。
誰だかわからない人間が数人、自分しかいなかった空間に入ってきたのだ。
普通怖いだろう。
彼女が自分達の侵入に戸惑っているのは王子も分かったのだろう。
何か言葉を発しようと口を開いたが、すぐに思い出したようにチラリと私に視線を向けてきた。
どうやら私の出番らしいが、王子よ、今絶対私の存在忘れてたよな?
『――初めましてルチアーノ王女殿下。私、グランテーレ国王陛下より王女殿下の側付きを命じられました、ロクサーナ・バートンと申します』
王子に心の中で苦言を呈しながらも、この国の作法とは少し違う、重心を後ろに置いたカーテシーと共に簡単な自己紹介を行う。
ユノお墨付きのネイティブのイスラ言語と、イスラ帝国に属する諸王国の礼儀作法でのお辞儀に、王女の顔色が驚きと共に分かりやすく良くなる。
『私の側仕え・・・?そう・・・、あなたイスラ言語が話せるのね。カーテシーもとてもお上手・・・。ロクサーナと呼んでもよろしいかしら?』
『どうぞ殿下の呼び易いようにお呼びください』
『・・・、なら私の事もルチアと呼んでくれるかしら。側付きという事は短くないお付き合いになるのでしょう?これからよろしくね』
『えぇルチア様。これからよろしくお願いいたします』
積み重なる心労から幾許か陰っているはいるものの、少しは安心出来たのか、ルチアという名前に相応しい明るい笑顔を浮かべた。
先ほどまで陰っていた桃色の瞳も、しっかりと私を写している。
そんなやりとりを見ていた王子が、少し驚いたように言葉を発した。
「驚いた。本当に言葉が通じてる」
「陛下を騙すような嘘は付けませんよ」
「まぁ、そうなんだけど・・・」
そう言いながら分かりやすく不貞腐れてしまった。
やはりかなり疑っていたらしい。
後ろの公子はロキであると気付いているので、私がイスラ言語が話せたことに対しての驚きは特にない様だが、そもそも私がロキであることの衝撃から未だ抜け出せず、ひとり悶々としているらしい。
彼の心が落ち着くのは暫く先になりそうだな。
『ルチア様。こちらの方々をご紹介してもよろしいでしょうか?』
『えぇ、お願いできるかしら』
私の王子たちを示すジェスチャーに、王子たちも私が何を言っているのか何となく分かったらしい。
王子と公子が改めて王女を真っ直ぐと見据える。
『左の方がこの国の第2王子、クリスティアン・グランテーレ王子殿下。彼は剣士として冒険者登録を行なっていて、現在Eランクとして活動中です。そして右の方が、リンドビーク公爵家の嫡子、ユリアス・リンドビーク公子様です。彼も殿下と共に冒険者登録をしていて、主に魔法を使っている様です』
一通りの紹介を終え視線を向けると、そろって頭を下げる二人。
この国のお辞儀ではあるが、その意味合いは同じなので気にする事はないだろう。
「クリスティアンです」
「ユリアスです」
短くセリフを揃えて言う二人の言葉に、王女も言葉の共通点にピンときたらしい。
少し躊躇った後、意を決した様に声を発した。
「ルチアーノ、デス」
片言の中央諸国言語。
それでも言語習得の第一歩である。
そして、こちらの作法を少しだけ知っていたのか、この国に乗っ取ったカーテシー、前に重心をおく礼を二人に披露する。
そんな王女を見た二人は、顔を合わせパァッと笑顔を華やがせた。
言語も文化も全く違う二つの国の3人が初めて通じ合ったのだ。うれしくもなるだろう。
ほんわかした空気感の3人をほのぼのと眺めていると、ふと私の視線に気付いた王子が、作り物の表情に戻ってしまった。
それを見た王女が不思議そうに私の方を見る。
『殿下はどうしたのかしら?』
『ルチア様がお気になさることではありませんよ。私の実家に少し問題があるだけですので』
『そうなのね・・・。あら?それでもあなたは国王陛下のご指名でここにいるのでしょう?』
『えぇ、そうなりますね』
『ふふっ、ロクサーナはすごいのね。この国にいてイスラ言語をそれだけ上手に話せるのだから、当たり前のことだけれど。ご実家がこんなに忌避されているのなら、あなた自身の力でここにいるという事になるわね』
『買い被りすぎですよ。運が良かっただけですから』
そう、王太子に気に入られたのも運だし、ユノと友達になれたのだって運だ。
『ふふふっ。貴女がそう言うなら、そう言う事にしておくわ』
さっきまで死にそうな顔をしていたのに、私を揶揄うのが楽しいのか言葉にも笑顔にも余裕が出てきた。
2つほど年上と聞いているが、確かに話していてお姉様感はあるな。確か弟と妹がいたんだっけか。
「ロクサーナ嬢、話中すまないが、挨拶も終わったし僕たちはお暇するよ」
「かしこまりました」『ルチア様、殿下たちがご退出なさるそうです』
「では、ごきげんよう、ルチアーノ王女殿下」
「ごきげんよう、ロクサーナ嬢、ルチアーノ王女殿下」
「・・・ごきげん、ヨウ」
また新しく覚えた言葉が合ってるのか不安な様子の王女に二人が笑顔で頷いたので、安心した様子の王女が改めて頭を下げた。
王子の私に対する警戒心は結局解かれる事はなかったな。
そっけない王子の対応に挙動不審気味になっている公子に、気にするなと言う旨を視線で送ると、それを受け取った彼は少し気疲れしたように去って行った。
「ロクサーナ様、担当の者が参りますのでこちらで少々お待ちください」
「かしこまりました」
二人がいなくなったタイミングでの侍従の言葉に頷く。
彼は外で待機するらしく、扉を出ていく背中を見送りながら王女の方に顔を戻す。
『ルチア様、詳しい者が来るそうなので少しお話ししましょう?』
『そうね』
『お茶はいかがですか?』
『いただくわ』
『かしこまりました』
だいぶリラックスできてる様子の彼女の言葉に、私の持ち物の中では上の下くらいの価値のティーセットを『収納』から取り出し机に並べる。
魔道具のポットからティーポットにお湯を注ぐと、ふんわりと爽やかな香りが立ち込めた。
『あら?初めての香りね・・・』
『先日珍しい茶葉が手に入ったので、ルチア様にも召し上がって頂きたいと思いまして』
『まぁ、ありがとう』
ほんわかと柔らかく笑う王女を見て、のんびりとした長閑な彼女の母国の風景が脳裏によぎる。
その国がもうこの世界に存在しないと思うと、やるせ無い気持ちになるな。
その後、王女の魔力がじんわりと回復しているのを横目に、王都で流行りのクッキーを広げ、王国の事について一学生の目線で説明していく。この国の学園いついて。ドレスやお菓子の流行りについて。冒険者について。
王女の気の向くままの質問に丁寧に答えていく。
そして、部屋に説明役の秘書官がやって来た頃には、王女の活力はほぼ本来のものに戻り、落ち着いてこれからのことについての話し合いに挑むことができた。
秘書官が向かいに座り、王女が私の横に座り、机には諸々の書類が広げられている。
王弟に嫁ぐ事になることはある程度ギルド職員の方に聞いていたらしく、その話になった時の彼女には驚きの色は見えなかった。
グランテーレの王族が穏やかな気質を持っていることは彼女の国でも有名だったらしく、特に不安なところはないらしい。いきなり年の離れた既婚者に嫁ぐと言われて全く取り乱す様子を見せないのは、さすが王族と言えるだろう。
その後、王侯貴族の義務である学園での学習は、戦時特例が認められるらしく、しばらく通う義務は免除される旨を聞き、これからの生活についての話に移った。
通訳に徹していると一通りの話が終わり私の話になった。
そうだね、私も日常から外れるのだから、説明は必要か。
結論から言って、これはアルバイトである。
平日の放課後に3日、休日に丸1日城に上がり、王女殿下の通訳とお話し相手を務め、週に金貨1枚をもらう。
しかし休日が1日抑えられるのは痛いな・・・。
ロキとしての活動が相当制限される。
この辺りで日帰りできるダンジョンは既に踏破済みなので退屈しそうだ。
あとは平日の3日について。
週に2回だけ行っても出来る事は限られるし、サロンは暫くの間お休みした方がよさそうだ。
そんなことを考えていると、廊下に控えていた侍従がノックと共に入ってきた。
「ロクサーナ嬢。男爵閣下からのお手紙です」
「・・・お父様から?」
予想外すぎて返事をするのに妙な間が開いてしまった。
父からの手紙なんて初めてである。
それにさっき会ったばかりでは?
王女と秘書官の会話を止めてしまっている事を謝りながら、それを受け取りペーパーナイフで封を開ける。
内容に見当がつかず恐る恐るだったが、それを読み進めてみると、つらつらと先ほどの喜びと私を褒める言葉が綴られていた。
今回の私の成果が父にとってよほど嬉しかったのか、先ほども聞いた言葉を繰り返し繰り返し書かれれいる。
どうやら家に着くのも待ちきれず馬車の中で書いたようだ。
ふと目の前から笑い声が聞こえた。
顔を上げると王女が笑っている。
『ロクサーナ、嬉しそうね。何かいいことが書かれていたのかしら』
そのあり得ない指摘に、私の顔からスンッと表情が消えたのが自分でも分かった。
もしかして私、笑っていたのだろうか。
『あ、あら?私、何か良くないことを言ったのかしら・・・?』
戸惑う王女に悪い気がして再び笑顔を貼り付けるが、自分でもうまく笑えている自信がない。
胸の辺りで感情がつっかえて、どうにも言葉がうまく紡げない。
『ロクサーナ?』
それでも何か返さなければ口を開こうとした所で、不意にトントンとノックの音が部屋に響いた。
この部屋にいるのは現在、王女と私、手紙を持ってきた侍従、秘書官。
秘書官は子爵の位持ちなので、扉を開けるのは自ずと侍従となる。
ぐるぐるとした不愉快な心境のままその様子をぼんやりと見ていると、侍従が扉を開けた瞬間、ドロッとした殺意の気配がうなじを突き抜けて行った。
その鋭い感覚にハッと我に返る。
そして瞬きをした次の瞬間には、扉を開けていた侍従の背から血濡れた刃が生えていた。
侍従が刺された、そのことを認識するまでしばらくかかった。
王女からトラウマを刺激されたかのような恐怖と絶望のオーラが漂ってくるのを感じながら考える。
何が起こっているのかわからないが、敵が侵入し、侍従が刺された。
衛兵は何をやっている!
敵は何人だ、目的は?
そう思考を巡らせる。
しかし感情が大きく揺れた直後だからか、思考がいつも通り起動するまで妙に長く感じる。
現状で命を狙われる可能性があるのは目の前の王女ただ一人。
私を消したいと願う人間が動くにはこの場は不適合すぎる。
彼女の敵国の手のもの、そう考えるのが自然だろう。
思考は動き出した、しかし指輪でステータスの下がったこの体を動かすにはいつもの何十倍もの時間がかかる。
まずこの場で第一に優先すべきはーーー、王女の安全!
力を失い倒れていく侍従の脇を抜け、普通ではないスピードで王女へ向け一直線に駆けてくる刺客。
秘書官が対処すべく慌てて立ち上がるのが気配で分かるが、遅い。
刺客の動きから、暗殺に特化した戦闘員なのはすぐに分かった。
動体視力はロキの時と比べると数段劣るが、それでもどうにか追えている。
素早さ極振りの刺客の動きをゆっくりとした視界で捉えながら、竦んで動けないでいる王女の目の前に立ち塞がる様に立ち上がる。
そしてその行動をとった瞬間、身を挺するより指輪をとった方が良かったとこの上なく後悔したが時既に遅し。そんな余裕はもうどこにもなかった。
刺客と王女の間に入った私は、最善策を模索しながら、空気を揺らがせる声量で扉の外に声を届ける。
「衛兵‼︎‼︎‼︎」
私の声に異常を察した衛兵が扉の中を慌てて顔を覗かせるのは、私の元に刺客が到着してからだった。
ロキに比べ何次元も格の低いステータスで、刺客の持つ短剣をその勢いと共に体で受け止める。
深く刺さった短剣の冷たさと一点に熱が集まる不快な感覚が、膨大な情報量として脳に突き刺さる。
これほどの痛みを感じるのは、この人生で3度目だ。リーゼロッテの件でもう懲り懲りだと思ったが、こうなっては仕方がない。
腹部に穴が開き、裂けた内臓から血が込み上げてくる。
まだ足に力が入ると言うことは、脊髄への損傷は避けられたらしい。
「ゴフッ」
『ロクサーナ‼︎』
そこでようやっと王女が現実に戻ってきたようだ。
皆が寝静まるのを待たず白昼堂々とやって来たのだ。
刺客も王女の殺害のみが目的の特攻要員のようで、退路を気に留める事もなく、騎士が剣を持ってこちらに走って来ていても慌てた様子はない。
ただ少し邪魔な壁になっただけの小娘なんか気に留める事もないと、私の身体を無造作に切り捨てようとする刺客。
その動きを読んでいた私は足に力を入れその腕が身体から離れない様、左手で思いっきり刺客の手首を掴んだ。
大丈夫、コイツの動きからステータスが敏捷極振りだという事は分かりきっている。
腕の力勝負なら子供と親くらいの差しかない。
その差を気力のみで出来る限り埋める。
腹を刺され口から大量の血を吐いているにも関わらず、爪が食い込むほどの力を込め、未だ戦意の衰えない私にギョッとしている刺客の隙をつくように、背後で『収納』から取り出した短剣を、あらん限りのスピードで刺客の首に切り込む。
しかし、相手も専門の殺し屋。
その程度の攻撃は避けることも容易い。
首を狙った攻撃は刺客が軽く後ろに身体を逸らしたせいで空を斬る。
ロキだったら一発K Oだったのに・・・。
いや、そもそもロキなら体が剣を弾いているな。
そんな事を呑気に考えながら私は直ぐに短剣の軌道を修正し、少し力は込めにくいが、振り抜いていた腕を反対の下方向へ振り込んだ。
刺客は私に体に生えている武器を手放すことを惜しんだのか、私の左腕を振り払うことを再優先しなかった。それが幸いして、私の短剣は間合いにいる刺客の右の上腕に思い切り突き刺さる。
「ぐッ」
肉を裂く痛みに思わずと言ったふうに手を武器から離した刺客は、数歩後退しすかさず無傷な左手で手裏剣のような暗器を取り出した。
自分もつい先程そうしたが、この世界『収納』があるから武器は出し放題なのだ。
ほんと、面倒臭い。
そしてこれが刺客の放つ最後の攻撃だろう。
既に衛兵たちは刺客の間合いに入り、剣を振り上げている。
こいつを殺すより王女の護衛を・・・、と言っても無理か。
王女は私の後ろ、位置的に刺客の退治が先になる。
刺客の手から放たれる暗器。
大丈夫、見えている。
私は魔力操作をフル活用し、本来のものに比べ米粒ぐらいの劇弱魔力で風魔法を作り出し、暗器の軌道を全て王女の範囲外にずらしてく。
王女に傷一つ負わせる事なくやり過ごせたのと同時に、刺客が衛兵に切り捨てられた。
そして私は、体感的に残存H Pが1になっているのを察する。
完全に気力のみで生きている状態。確かに、H Pが1になると脅威の持続力を見せるな人間って。
そんなことを考えながら、腹に刺さる剣を抜くよりも先に、ステータス制限の指輪を外す方に意識を向ける。
ぐらつき倒れそうになる私に、王女と衛兵が慌てて駆け寄ろうとしている。
世界がゆっくりと流れる中で、同じくゆっくりとしたスピードで、自分の左指が右の人差し指に嵌る指輪を捉える。
死にかけの状態でステータスを戻すとどういう現象が起きるのか少し気になっていたので、丁度よかった。
そんな事を遠い世界で見ていると、ふと、扉の先に見知った気配が現れた。
父からの手紙の事で一杯一杯で、近づいてくるのに、全く気づかなかったな。
たまたま私の様子を見るために直ぐそこまで来ていたのだろう。
「リーーー・・・」
リアムさん、そう言おうとした。
しかし、走って現れたらしい彼の初めて見る表情を見て、ふっと、気が抜けた。
あ、やべ・・・。
指輪を指から外す前に身体の力が全て抜け切り、傾き遠くなる世界で、私の名前を必死に叫ぶリアムさんの声が聞こえた。




