山月記法廷
法廷では既に検察官と弁護人が準備を済ませて待っていた。そこに、檻に囚われた一匹の虎が刑務官に台車で運ばれて入廷する。普通、入廷したら被告人の拘束は解かれるものなのだが、もし彼が暴れようものなら廷吏が束になっても手に負えないので、引き続き拘束されることになった。少し遅れて裁判官と裁判員が入廷した。
「それでは開廷します。被告人は前へ」
被告人と呼ばれた虎は檻の中で一歩前へ出た。
「名前を」
「李徴です」
「職業は?」
「地方官吏です」
虎は裁判官の質問に淡々と応じた。
「検察は起訴状を朗読してください」
検察官は次のように語った。
「公訴事実、被告人は昨日の明朝、商於において、当時嶺南を目指して歩いていた袁傪に対し、殺意を持って噛み殺した後、他四名に重軽傷を負わせた者である。また……(ここで袁傪とは別件の被害者の話に移るが、資料がないので割愛)……罪名及び罰条、殺人罪、刑法199条、傷害罪、刑法204条」
「これより、今朗読された事実についての審理を行いますが、被告人には黙秘権がありますので、答えたくない質問に答える必要はありません。ただし、この法廷で述べたことは、被告人の有利不利を問わず証拠として扱いますから、質問に答える時は十分注意してください。検察官が朗読した事実について、何か違うところはありますか」
「事件当時私は心身ともに虎になっていた為意識がなく、袁傪への殺意もありませんでした。他の被害者についても同様です」
「弁護人のご意見はいかがですか?」
「被告人と同様で、被告人の無罪を主張します」
「それではこれより証拠調べに移ります。廷吏は被告人の檻を席へ」
廷吏三人が被告人のもとへ駆け寄り、証言席から檻を運んだ。運搬が完了すると、裁判官が口を開いた。
「では、検察官は冒頭陳述をしてください」
「検察が証拠によって証明する事実は次の通りです。
第一 被告人の身上経歴
被告人は隴西にて生まれ、天宝末年に官吏登用試験合格後、江南尉に就任する。ほどなくして、詩作にふけるために官を退いたが、文名が思うようにあがらず、数年後に再び地方官吏の職に奉ずる。一年後、出張先の汝水の宿で虎と化して失踪し、本件の犯行に及んだ。
第二 犯行に至った経緯等
被告人は、被害者の一人である袁傪と同年に進士の第に登り、交友関係を持ち始めた。他人と交友関係を持つことが少なかった被告人にとって、袁傪は特別な存在であった。
しかし被告人は、一度官を退いて再び地方官吏に就くと、かつての同輩や後輩の下命を拝さなければならないことに不満を抱き始めた。袁傪に対しても例外ではなく、被告人は、自分よりはるか高位に進んで監察御史となった被害者に劣等感を抱いていた。
その一年後、虎と化した李徴は、今までうまくいかなかった鬱憤を晴らそうと考え、人食い虎を装って無差別に被害者等を襲い、殺意を持って噛み殺した。
翌年九月、被告人は商於にて嶺南へと向かう道を歩いていた袁傪一行を発見したので、袁傪を噛み殺して地方官吏時代の嫉妬と不満を解消しようと考え、再び犯行に及んだ」
「それでは、弁護人は冒頭陳述をしてください」
「被告人に殺意はありませんでした。被告人は虎の姿になった際に、虎の人格と人間である李徴の人格、二つの人格が交互に入れ替わる体質になってしまいました。
ですから、無差別殺傷に及んだのは被告人に内在する虎であり、被告人には殺意はおろか意識すらありませんでした。袁傪についても同様で、虎にとって獲物の一人にすぎなかったはずです。
また、再び地方官吏に就いた時にかつての同輩及び後輩に劣等感を抱いていたことは認めますが、袁傪に対してだけはそのような私怨はなく、本当に心を許せる数少ない友人でした。よって、被告人がかつて抱いていた劣等感は本件の犯行と関係しません。以上です」
「次に、この裁判の争点を整理して確認します。まず争点の整理です。本件の争点は、ただ今、弁護人と検察官が述べた通り、被告人が犯行の際に殺意を有していたかどうかです……」
裁判は順調に進むかと思われた。
すると、突然耳を這い上がるような唸り声が法廷に響き渡った。
見ると、一匹の猛獣が檻の中で裁判官を見据えて立っていた。かつての好青年李徴の姿は今やどこにもなく、ただ鼻息を散らしながら目の前の獲物を睨みつけるばかりである。
李徴はたった今虎に戻ったのだ。
「おい……これヤバくねえか」傍聴席の誰かが漏らした。
それを皮切りに、傍聴席から不安の声が決壊したダムのように押し寄せた。
「虎に戻っちゃったの?」
「無罪判決の為のパフォーマンスでしょ」
「いや、演技にしては迫真すぎるぜ」
「静粛に! 皆さん静粛に! 檻があるから大丈夫です……」
裁判官が鎮めようとした瞬間、虎は獣のような咆哮をあげて暴れ狂い、檻を激しく揺らし始めた。
騒めきはピタリと止まり、一斉に檻の方へ視線が集まる。
すると虎は鉄格子へ突進を繰り返し始めた。脱出を試みているのだと誰もが思った。
法廷は水を打ったように静まり返っていた。一同は固唾を呑んで檻の行く末を見守った。
だが、虎が更に勢いをつけて突進すると、檻の扉は軋むような音を立ててあっけなく開いた。
一瞬、人々は何が起こったのか理解できなかった。しかし、虎が一歩一歩踏みしめながら檻から身体を出したのを見てようやく、身体中から血の気が引いていくのを感じた。
「逃げろお!」誰かが叫んだ。
檻に抑止力がないと分かった今、法廷は大パニックである。
傍聴席の人間は悲鳴をあげて逃げ惑い、弁護士は持っていた資料を投げ捨てて一目散に駆け出していった。
だが、虎の標的は既に定まっていた。虎は裁判官の方へじりじりとにじり寄っていった。
「ひいぃ!」
裁判官は腰を抜かして後ずさった。
「被告人は直ちに席に戻りなさい! さもないと法廷侮辱罪に…」
虎は検察官の叫びを遮るように、裁判官のもとへ踊り出た。
もう駄目だと誰もが思ったその刹那、突如法廷に銃声が鳴り響く。
虎は、あわや裁判官に躍りかかるかと見えたが、たちまち身を翻して、額から血を流しながら地に落ちた。
みかねた廷吏が銃で虎を撃ったのだ。裁判官はへなへなと地べたへと座り込む。
法廷には微かに硝煙と酸化臭が漂っていた。
こうして李徴は法廷で一人の人間として裁かれた後、一匹の猛獣として息絶えたのであった。




