第04話_シンプルな答え
礼人が帰宅した時には、陽は殆ど沈んでおり、濃い紫色の東の空に星々がはりついていた。
車から降りた礼人は二階を仰ぎ見た。窓際に人の姿はなく、電気もついていない。礼人は玄関のドアをたたきつけるように強く閉めた。
「礼人かい? 晩ご飯できてるよ」
克華の声が、奥の居間から届く。いらない、と礼人は乱暴に応えた。
「実弥のやつ、なんだってトレーニング・プログラムなんかをもってったんだ……」
昼間の実弥の態度、そして、チームに残るべきかどうか----複雑な思いで不機嫌になっていると、階段で美蕾に会った。
上の階からじっと見下ろす美蕾。整っているその顔は感情がでておらず、なにを考えているのか礼人にはわからない。無関心の塊といった彼女の様子に、礼人の不快感は増大した。「なにか俺の顔についてるのかよ」と八つ当たり気味に言い、美蕾を睨んだ。
唐突に、美蕾の目から涙が溢れ、頬をつたった。当の本人は涙に気づいていないのか、拭うこともせずにただ礼人を見つめている。
「なんで泣き出すんだよ」、礼人はあせったが、この場から逃げることもできなかった。
「なんだい、さっきの言い方は? あたしの作った物が食べられないってこと?」、テフロンフライパン用のヘラを短い鞭のように扱って鋭い音をたてながら、克華がやってきた。美蕾の顔を見た克華の動きが止まる。
姉と美蕾に挟まれた礼人はどうすることもできず、頭を抱えた。
「礼人、なにか嫌なことがあったのかい」
克華の口調に、責めるような響きは含まれていない。ヘラで打ちのめされるものとばかり思っていた礼人は拍子抜けした。
「なんで?」
「この子はね、敏感なんだ。言葉を失ったぶん、人の心に対する反応が過剰なんだよ」
「ごめん。ちょっとイラついていたから」
「まだましさ。前はすぐに逃げることも多かったからね。それにさ、不機嫌というよりは----」
克華が美蕾を見やる。礼人もつられて目線を動かした。しかし、美蕾に変化はない。無表情なままで涙を流しているだけだ。
「不機嫌というよりは、悲しいことがあったんじゃないのかい。この子が相手の心に触れて泣くことなんて滅多にないからね」
克華の指摘は、礼人の胸の奥を刺した。不機嫌になるというのは、自分にふりかかってきた嫌なことを認めたくないという気持ちのあらわれなのかもしれない。嫌なことを事実として受けとめるだけの心の広さが備わっていれば、機嫌を悪くすることもなくなるのだろうか。
「嫌がったって、実弥やチームのことが変わるわけはないんだもんな」
礼人がそんなことを考えていると、美蕾が階段を降りてきた。礼人の正面に立った彼女が手をゆっくりと伸ばす。手摺にのせていた礼人の手に、彼女の指が触れる。今にも折れてしまいそうなほどに細く、頼りない指先だった。
克華が小さく息を呑む。
「美蕾ちゃんが自分から他人に触れるなんて……」
美蕾は、やはり無言のままだ。しかし、さっきまでこぼれていた涙は止まっている。まるで心の奥まで覗かれているような気にさせる、深い色の瞳だった。先程までの苛立ちが嘘であったかのように、礼人は冷静になることができた。
美蕾が手を引いた時、礼人の心は決まっていた。
「もう一年、頑張って続けてみるか」
チームを去っても、なにも変わりはしない。思えばこの一年、本気で打ちこんでいなかった。
「ありがとう。踏ん切りがついたよ」
礼人は美蕾の片手をとり、強く握った。美蕾は、握手を知らないかのように、握られた手に目線を落とした。
「単純な弟だろ」、克華が誇らしげに美蕾へと告げる。
その時、礼人は、美蕾の表情が緩んだような気がした。あまりにも小さな変化なので、目の錯覚だったかもしれない。
結局、美蕾は一言もしゃべらずに、部屋へ引き上げていった。彼女の頼りない後ろ姿が、本当は礼人の物である部屋へ消えると、礼人は廊下の端の電話台へ向かった。
「やっぱり飯食うから。用意しといてくれよ」
はいよ、と克華の短い言葉が返ってくる。受話器をとった礼人は、久梨奈の携帯電話の番号をかけた。
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西暦2028年3月----
2027年度の「マリオネット・フォーミュラ」は昨月終了した。
だが、各チームの新シーズンに向けての戦いは、既に始まっているのだった。
(つづく)




