第10話_わるいたくらみ
開けっ放しの窓からは、風がまったく入ってこなかった。西日と蝉の鳴き声が、礼人の不快指数を増大させる。
「いくら経費削減だからって、監督室のエアコンまで切らなくてもいいだろうに」
監督室で、礼人と空也は直立不動の姿勢をとっていた。
がっしりとした執務机では久梨奈が目を閉じ、こめかみを押さえて唸っている。スーツは爽やかな色でまとめられており、半袖だが、襟元はしめられていた。
「監督、どうですか?」
空也が尋ねると、久梨奈は長い息とともに表情の力を抜いた。
「あー、やっとおさまった。一気に食べるとキーンとくるのよね」
久梨奈の片手には氷アズキのカップがある。礼人と空也は、その場にくずれそうになった。
立ち直った礼人は書類の積み上げられた執務机を両手で叩く。
「ひょっとして、俺たちの話を聞いてなかったんですか?」
「冗談よ」
久梨奈は笑いながら氷アズキの最後のひとすくいを口に運び、真面目な顔になった。
「予算が少ないのは、あなたたちも知っているでしょ? マリオネットの開発に回せるだけの余裕はないの。本戦への参加が決まったから移動や準備にも費用がかさむのよ」
「でも、マリオネットの性能をあげることも考えないと」
「気持ちはわかるわ。……気持ちだけはね」
礼人が食い下がると、久梨奈は渋面となった。会話が行き詰まり、暑さも手伝ってか、礼人は息苦しさを感じた。部屋の隅にある古びた扇風機はガタついており、首の向きを変える度にしばらく止まった。
「よし、こうしよう」、空也が手を打ち、礼人と久梨奈の気を引く。「俺の給料をマリオネットの開発用につぎこんでくれ」
空也の目は真剣そのものだ。メカニックとしての意地だろう。礼人も負けてはいられない。
「だったら俺のもだ」
「認めません。会社として、社員の給料を奪うことは許されないわ」
「俺たちがいいって言ってるんだから」
反論する空也を、そういう問題ではない、と久梨奈が遮る。
「経営的なものと、社員を養うという体制の責任的な問題なのよ」
「会社には社員の主張を認める義務もあるはずだ」、礼人は言う。
「面倒な理屈はいいから、ブルー・ヘヴンのためにお金を出してくれよ」と、空也が続く。
礼人は引き下がるつもりはなかった。それは空也も同じようだ。久梨奈は机に肘をついて、額を指で支えた。
「あなたたちの気持ちはわかりました。スポンサーにも話してみるわ。あまり期待しないでね。がっかりさせたくないから」
面倒事を抱えこんだという、露骨に沈痛な面持ちとなる久梨奈。結論を先送りにする形で、礼人と空也は久梨奈に勝ったのだった。
礼儀正しく監督室を後にした礼人と空也は、事務室に向かった。事務室は二階に位置しており、給湯室も近くにある。
事務室には麗と仄香、土筆に美蕾の四人がいた。麗と仄香は専用の机が与えられているが、麗は下敷きを団扇代わりにして扇いでおり、とても仕事をしているようには見えない。仄香はノートパソコンへの入力業務に没頭していた。仄香は相変わらず和服姿だ。見ている礼人が暑苦しくなるが、仄香本人は涼しげだ。
「二人のぶんも、アイス買っておきましたよ」
机に腰掛けていた土筆が、コンビニの袋を空也へ手渡す。土筆は「それでね」と美蕾とのおしゃべりに戻った。椅子に座った美蕾は足をそろえて、土筆の話を聞いている。美蕾が短期間で言葉を取り戻してきたのは土筆のお陰も大きいだろう。
「なんだこりゃ。全部とけてる」
空也が叫ぶ。礼人が手にした棒つきのアイスも同じで、袋の中身はやわらかかった。
「あ、ごめんなさい。美蕾ちゃんのすぐ後に二人が来ると思ったから、冷蔵庫に入れてなかったんです」
拝むような真似をして謝る土筆。まあいいか、と空也は端を切った袋をくわえた。「シェイクと思えばな」、礼人も同じように袋を傾け、とけたバニラアイスを飲んでいった。お世辞にも美味しいとは言いがたい味だったが、空也は二個めを口に含んでいた。
電話が鳴り、仄香がとった。規則的なやりとりの後で保留状態にされる。
「礼人さん、お姉様からです」
礼人は手近な電話機に手を伸ばした。
克華の話は短かった。克華の勤務している病院での科別研修が急に決定した。その期間に美蕾の面倒を責任もって見てほしいというのだ。
「ちょっと待ってくれよ。俺も大会で日本にはいない時期だぞ」
礼人の返事よりも先に、克華は電話を一方的に切った。礼人は乱暴に受話器を置いた。
「なにイラついてるんだよ」、空也が尋ねる。礼人は電話の内容を簡単に説明した。
「なんだ。美蕾ちゃんを俺たちに同行させればいいだろ」
「部外者を連れていくだけの余裕はないわよ。忠告しておくけど、会場周辺のホテルは満室」
空也の提案に、麗がすかさず異議を唱える。
「だったら、部外者じゃなければいいんだ」、土筆が明るい声で言う。
「でも、美蕾にはチームに貢献できるような技術がないし……」
「大丈夫だって、礼人さん。こんなに可愛いければ、ねぇ。スタイルもいいんだし」
値踏みするような怪しい目つきで、土筆は美蕾をじろじろと見る。きっとろくでもないことを企んでいるに違いない。礼人は土筆の発言に不安を感じた。
(つづく)