五
「藤ちゃん……。何これ、どうなってるの……?」
病院に運び込まれたひとりの少年が、原因不明の重体患者としてベッドに横たわっている。
時刻は正午過ぎ。神社の境内で倒れていたところを神主が発見し、一一九番通報したそうだ。
少年に外傷はなく、クロッキー帳と数本の鉛筆が周囲に散らばっていたことから、スケッチをしているときに熱中症を起こして意識を失ったものと思われていたのだが……現場に駆け付けた救急隊員の見立てでは、彼にその症状はなかったらしい。
呼び掛けても反応しないこと以外に異常も見つからなかったため、念のために点滴だけ打って経過観察をしているという状態だった。
「落ち着いて、桃花。とにかく、ここに置いておくのは良くない。早く戻さないと」
「戻すって、どこに?」
「この子が倒れていた神社の境内に、よ」
「わかった! 車を手配してくる!」
病室を飛び出していった桃花の背中を見送った藤は、ベッドで目を閉じる少年の青白い顔を見下ろして、口元を歪めた。
「私たちにできるのはここまでよ。あんたはどうするの? 小宮」
*
長い石段を上り終えると、樹の下で僕を待つ春奈の姿が目に入った。
「せんぱーい! お花がたくさん咲いてますよー!」
大きく手を振る春奈に、僕も控えめに応える。
彼女が美術部に入部して一週間がたった今日は、野外スケッチの日だった。
文句なしの晴れ模様。もし、ここに桃花がいたら、寝転がるのにちょうどいい芝生を探して、猫よろしく昼寝とか始めていたに違いない。
藤は……どうだろう。晴れの日とか、好きなんだろうか。
あの美しい横顔で、何を言うのだろう。
「桃先輩も藤先輩もお休みなんて、残念です。あたし、いろいろ勉強したかったのに」
「え? あ、うん……そうだよね。春奈、絵は描けないなんて言って、道具はちゃっかり揃えてるし」
「せっかくですから! この機会に、先輩の技術だけでも盗もうかと思いまして」
健気に笑う春奈に微笑み返しながら、僕の胸は少し痛んでいた。
春めいた陽気はぽかぽかと気持ちが良くて、いつものように樹の下に座り込むと、青々と茂った草木や、遠くに見える古びた鳥居にほっと息をつく。
春奈がとなりに腰を下ろした。耳の奥で涼やかな音が鳴る。
「ねえ、先輩」
足元に咲いていた小さな野花を手折った春奈は、指先でその茎をくるくる回しながら、遠慮がちに口を開いた。
「先輩は、藤先輩のことが好きなんですよね?」
「……」
いやあ、それはどうかなあ、と思った。
確かに、僕が藤に抱いている感情は、それくらいシンプルで強いものだ。でも、春奈の言う「好き」と、僕の「好き」は、本質からして違うもののような気がする。
「あたし、わかってるんです。藤先輩に嫌われてるの」
「……」
いやあ、それもどうかなあ、と思った。
確かに、ここ一週間、藤は春奈との接触を避けていたかもしれないけど。でも、あの藤が、たかだか個人程度を嫌うだろうか。
「先輩は、それでもあたしの面倒を見てくれてるじゃないですか。何だか、申し訳なくて」
「その二つは……関係あるの?」
「ありますよ! ぎくしゃくしちゃったら嫌ですもん!」
ぱっと開いた春奈の手から、しなびた野花がポトリと落ちる。
「学校というのはそういうところなんです。あたしは知っているのです」
「そう?」
「先輩はふわふわしてるから、見えてないだけですよ」
ちょっと不機嫌そうにつんとした春奈の姿が、いつか見た桃花の姿と重なった。七月頭の豪雨、つま先までずぶ濡れになった彼女は恐らく、泣いていた。
こみやんはぼけっとしてたらだめだよ。藤ちゃんのこと、見失っちゃだめだからね。
その記憶は足の裏に刺さった棘のようにひそやかで、上手に抜くことはできないし、歩けば痛い、そんなひどいものだった。
返す言葉などあるわけもなく、苦笑しながらクロッキー帳を広げた僕は――そこに挟まっていたものに、息を呑む。
「……先輩?」
木製のしおりだ。紫色の紐が付いた、どこかで見たことのあるような、木製のしおり。
ねえ、小宮。あなたはどこにいるの?
ジジ、と蝉が鳴いた。