三
美術室の窓を開けると、熱気のこもった部屋にむわっとした空気が入り込んできた。今日は風もないし、扇風機やエアコンなどという気の利いた道具もないこの部屋は、蒸し風呂もかくやといったところだろう。
藤はともかく桃花あたりなら、この暑さに対して「ストライキだ!」と拳を突き出していてもおかしくないレベルである。
六卓ほど並んだ工作台の間を抜けて、奥にあった棚から木製パネルを取り出すと、「わあ、いいですね!」という楽しげな声が聞こえた。
一応振り向く。麦わら帽子を脱いできょろきょろしていた春奈が、何かに気付いたように美術室の扉を閉めた。
「えへへ。よろしくお願いしますね、先輩!」
ぺこりとお辞儀をされたので、僕も会釈を返した。
僕は結局、あの日、僕が泣かせたひとりの少女に根負けしたのだ。
この町にいる間だけでいいから友達になってほしいと、絵を描く邪魔だけは絶対にしないからそばにいさせてほしいと頼まれて、部外者にも関わらず、ここまで連れてきてしまった。
流されやすいのは僕の悪いところだと、口を酸っぱくして言われていたのに……。
「先輩の絵は、どこにあるんですか?」
「え?」
美術室を自由に歩き回っていた春奈が、にっこり笑って僕のほうを見る。
「家に持って帰っているとかですか?」
確かに、この部屋には卒業した生徒の作品や、他の美術部員の描きかけのキャンバスなどが置いてあって、その中に僕の絵はなかった。
「……ちょっと、事情があって」
心臓の音が大きく感じられる。僕は目をしばたいて、耳をすませるように、そこにいるものが何か探ろうとした。
そんなはずはないとわかっていても、まさか、という思いが拭えない。だって、彼女の姿は僕に見えているのだから。
「それより、よくわかったね。ここにない、って」
幼少期から染み付いているこの手の不安感は、僕ひとりでどうにかできるものではない。ゆえに、安直な方法だと自覚していても、こうして確かめずにはいられないのだ。
苦しまぎれにそんなことを考えていると、目の前の春奈があっさり笑った。
「もちろんです! あたし、先輩の絵、好きですから」
残念だなあ、と続ける。ものの一瞬で、僕の恐れがその形を変えた。
それはとてもシンプルで、でも、何より強い動機だということを、僕はよく知っている。だからこそ、少しでも彼女の存在を疑ったことに罪悪感を覚えた。
「いつか見せてくださいね」
はにかむように微笑んだ彼女に、僕は答えられなかった。
今日ここにきた目的である水張りを何枚か終えて、一息ついていた午後のことだ。
持参した弁当の包みを開いていた僕は、美術室の扉が激しく叩かれる音にふと顔を上げた。
「鍵はかけていないはずだけど……」
春奈も先ほどトイレに行くとか言って出ていったばかりだし、建て付けでも悪くなっているのだろうか。
とにかく箸を置いて扉に向かった僕は、その途中で、軽いめまいに襲われた。ぐわん、と世界が回る。暑いのに悪寒がする。
工作台に手をついて固く目を閉じると、藤に言われたことを思い出した。
夏休みなんだし、もう少し気を付けないと――。
「先輩?」
ざあ、と吹いた風に、春奈の細い髪の毛が、柳のように揺れた。
「あの。大丈夫、ですか?」
黒目がちな、不安げな瞳。
僕はそれをいつも、申し訳なく思っている。
「平気。ごめん」
「体調が悪いようなら、見学は別の日にしませんか?」
「見学って……何の?」
きょとんとした春奈の手には、部活動紹介の冊子。
「何の、って……美術部の、ですよ」
換気のために開けておいた窓から入り込んできた桜の花びらが、僕の前で、くるくると舞っていた。