二
二〇一八年。平成最後の夏だった。
青空の下、入学式の緊張から解放された生徒たちの話し声が溢れる校庭で、僕はひとり手持ち無沙汰に立っていた。
同じ中学から進学してきた生徒は数人いるらしいけれど、別段仲が良いわけでもないし、新天地で友達作りに励む気もない僕は、さぞかしぽつねんとして見えたことだろう。
はしゃぐほどのものなんだろうか、高校入学って。僕の感性がおかしいのかな。そんなふうに思いながら黒い頭を順々に眺めていると、ふと、ひとりの女子生徒に目を奪われた。
長い髪をなびかせ、凜としたまなざしで校庭を横切る少女。誰よりも美しいのに、それゆえに誰にも話し掛けられることのない、不思議な雰囲気の女の子。
ああ、あれは藤だと気が付いた。
ぼんやりと藤を見つめていた僕の耳に、一斉に鳴き出した蝉の声が飛び込んでくる。
はっとして目をしばたくと、彼女の姿は霞のように掻き消え、膝の上に乗せていたクロッキー帳と数本の鉛筆が音を立てて地面に散らばった。
「……は、あ、はあ、っぐ、」
妙な冷や汗を背中に感じながら、遅れてやってきた動悸に胸を押さえる。慣れた感覚に固く目を閉じて深呼吸を繰り返すと、うるさかった心臓が落ち着きを取り戻し始めた。
白昼夢、だろうか。それにしてはやけに現実らしかったけれど。
あまりの暑さにやられてしまったのだろうか。日陰を選んだつもりだったのに。本調子ではない頭でそんなことを考えていると、どこかでかいだことのある花の香りがした。
蝉の声が止んだ。
「あの。大丈夫、ですか?」
掛けられた声に顔を上げれば、まばゆい夏の木漏れ日に目がくらむ。右手でひさしを作ると、生ぬるい風が吹いて、見知らぬ少女の不安げな瞳と視線がぶつかった。
少女は立ったまま両膝に手をつき、樹の根元に座り込んだ僕のことを窺っている。
「体調が、悪いんですか?」
印象の薄い顔をした子だった。肌は白く、髪の毛は肩よりちょっと長いくらいで、黒いリボンを巻いたつばの短い麦わら帽子をかぶっている。淡い緑色のワンピースに白いカーディガンを羽織ったような格好をしていたけど、暑くないのかなと思った。
曖昧に微笑んで口を開く。
「大丈夫。ちょっと、休んでいただけだから」
答えると、少女の表情が少しだけやわらいだ。僕はそれを申し訳なく思いながら、転がった鉛筆を集める。すると少女は僕の前に屈み込んで、無造作に広がっていたクロッキー帳を拾い上げた。
「わあ、すごい。この絵、全部あなたが?」
使い込んでくたびれたクロッキー帳には、ミミズが這ったようなスケッチがいくつも描いてある。そんなふうに言ってもらえるほど大したものではないので、早く返してほしくて手を伸ばした。
「絵描きさんなんですか? ここにはよく?」
「ただの美術部員。今日はたまたま来ただけ」
僕以外には誰もいなかったはずの、昼下がりの境内。草木が青々と茂り、遠くに古びた鳥居が見えるここは、藤が教えてくれた場所だった。
淡々と返す僕を見て、少女は黒い瞳に涙を浮かべた。
「ごめんなさい。あたし、しばらくの間だけこの町で過ごすことになっていて。年の近い知り合いが誰もいないから、あの、お友達になれないかと思っ……て……」
うわ、しまった。泣かせた。