九
二〇一八年。平成最後の夏だった。
青空の下、入学式の緊張から解放された生徒たちの話し声が溢れる校庭で、僕はひとり手持ち無沙汰に立っていた。
同じ中学から進学してきた生徒は数人いるらしいけれど、別段仲が良いわけでもないし、新天地で友達作りに励む気もない僕は、さぞかしぽつねんとして見えたことだろう。
はしゃぐほどのものなんだろうか、高校入学って。僕の感性がおかしいのかな。そんなふうに思いながら黒い頭を順々に眺めていると、ああ、これは夢かと気が付いた。
一斉に鳴き出した蝉の声が飛び込んでくる。膝の上に乗せていたクロッキー帳と数本の鉛筆が、音を立てて地面に散らばった。
「……は、あ、はあ、っぐ、」
妙な冷や汗を背中に感じながら、遅れてやってきた動悸に胸を押さえる。慣れた感覚に固く目を閉じて深呼吸を繰り返すと、うるさかった心臓が落ち着きを取り戻し始めた。
白昼夢、だろうか。それにしてはやけに現実らしかったけれど。
「小宮」
トンと降ってきた僕の名前に顔を上げれば、まばゆい夏の木漏れ日に目がくらむ。右手でひさしを作ると、そこにいたのは、この世の果てみたいに美しいひとりの少女だった。
「藤」
長い髪をそれらしくなびかせた彼女は、あどけない色香をまとった笑みを浮かべている。
「あんた、また、変なのと繋がっていたでしょう」
「え?」
「見なさい、これ。夏休みなんだし、もう少し気を付けないと連れていかれるわよ」
そう言って藤が拾い上げたのは、僕の膝から滑り落ちた、くたびれたクロッキー帳だった。その拍子にぱらぱらとめくれたページはどれも真っ白で、漠然とした違和感に思わず眉をひそめる。
蝉の声が止んだ。
僕以外には誰もいなかったはずの、昼下がりの境内。草木が青々と茂り、遠くに古びた鳥居が見えるここは、藤が教えてくれた場所だった。
打ち水をなでた後のような冷たい風が吹いて、どこか懐かしい花の香りを運んでくる。
「今年の夏は、暑いわね」
涼やかに笑っている藤のことを、僕はただ、物寂しい気持ちで見上げて――ああ、と思った。
彼女の予想は、きっと正しい。僕はこれからつらい思いを重ねていくのだろうし、死にたくなるような夜を、ひとりきりで越えていかなければならないのだろう。
……それでも。それでもだ。
クロッキー帳を受け取ると、挟まれていた木製のしおりを返して立ち上がる。
「いってらっしゃい」
掛けられた言葉に、心臓が大きく跳ねた。
固唾を呑んだ僕は、果たすべき約束のために口を開く。
「……今度の、夏祭り。藤と桃花と三人で、って考えてたけど……もう一人、連れてきてもいいかな」
*
この世には――人の目には見えないけれど、確かに存在するものがいる。
物心付く前からそういったものにあてられやすかった僕は、ある日、それらの存在を視認できるひとりの少女と出会った。
彼女の名前は藤。
これは、藤と僕と、「人ならざるもの」の物語だ。
夏の春 了




