人の過去
俺にとってもあいつは自慢の友と呼べる存在だった。
「私如きが言える立場ではありませんが、ドルムンさんの為にも貴方は生き延びて下さいね」
「ああ。生き永らえていつか地球世界に戻ることが出来たら、その時はドルムンの生まれ育った国に行ってみるさ」
大願である地球への帰還が実現したのなら、俺は太陽の国と呼ばれるドルムンの出身国ブータンに行こうと心に決めていた。
ブータンは俺にとって馴染みのある国ではないが、尊敬に値する友人が育った国をこの目で見ておきたい。
「それは、良い思いつきですね。願いが叶うことを祈っていますよ。というわけで、これは私からの餞です」
店主は蜂蜜色の液体が注がれた杯を俺の前に置いた。
「これは?」
俺は初めて見る酒らしき液体に疑問を浮かべる。
「ドルムンさんが好んでよく飲んでいた蜂蜜酒です。エッジさんも飲んでみてくださいな」
店主がにこりと笑いながら俺に酒を勧める。
「ありがとう」
俺は厚意の酒をありがたく頂戴することにした。
蜂蜜色の液体を口に含み、そのまま喉へと流し込む。
口の中に甘みが広がり、さらに広がりしつこいくらいに何度も広がっていく。
「まずっ!」
度を越えた甘ったるさに思わず本音を吐き出す。
「ですよね。実は私もそう思いながら、ドルムンさんにいつもこのお酒を提供していました」
店主が控え目に笑いつつ、口直しとして水の入った杯を差しだしてきた。
「あの野郎、良い趣味しているな」
ドルムンという男は、死しても尚、愉快でふざけた奴だった。
その晩から、俺は酒場《竜の住処》に毎晩通うことが日課となった。
日中は新人殺しについて捜索をし、時にはアッシュと情報を交換する。
そして夜になると独りで店に入り、あの甘ったるい酒を飲んでから宿舎へと帰る。
酒は好きにはなれなかった(むしろもっと嫌いになった)が、人の良い店主と語らうのは悪くない時間だった。
そして酒場通いにも慣れてきた頃、事態が動いた。
◆
「あの、よかったらこれ食べて下さい」
少女が差し出したのは小麦パン。
「え?」
思いもよらない言葉に、彼は顔をあげて少女の顔をまじまじと見つめる。
「パン、嫌いですか?」
「いや」
彼はおそるおそる少女からパンを受け取ると、途端に噛り付いた。
空腹を耐え凌いでいた彼にとって、目の前に心優しい少女が現れたのは僥倖だった。
「おいしいです?」
夢中になってパンを貪る彼を見つめながら、少女が尋ねる。
彼はパン食べながらうんうんと何度も頷く。
飢餓の極みにいた彼にとって、ただのパンは涙が出る程のご馳走だった。
「よかった」
にっこりと笑い、自分のしたことがおせっかいではないことに少女が安堵する。
「お兄さん、お名前はなんていうの?」
「……トッシュ」
パンを食べ終えたトッシュは恩人ともいうべき少女の質問に答える。
「欲しいのならまたパンをあげるから、明日もまた同じ時間にこの場所に来てね」
「あ、ありがとう」
無垢な少女の慈愛に彼の涙がさらに溢れる。
世界から爪弾きにされていたトッシュの乾いた心に、少女の優しさが胸に染み入ってくる。
少女にとっては戯れに過ぎないかもしれない行動が、死にかけていたトッシュの身体と心を救ったのだった。
トッシュは少女からパンを受け取り、会話を重ねることで少しずつ生きる活力を取り戻していった。
間もなくして、彼は再び働き始めた。
建築作業の仕事は楽ではなかったが、文明レベルの高い日本の教育を受けていたトッシュは、建設的な思考に親しみを覚え、次第に仕事に慣れていった。
それでもトッシュにとって建築作業は辛いものだったが、少女と話すことが彼の励みになり、なんとか仕事を続けることが出来た。
少女に支えられ、トッシュは住む場所を確保し、日々の食事にも困窮することはなくなっていった。慎ましくはあるが、人並みの生活を送れるようになっていったのだ。
ある時、少女が野良犬たちに吠えたてられ壁際に追い込まれていることがあった。
「あっちへいけ!」
泣きそうになっている少女を見つけたトッシュは勇気を振り絞って、野良犬の群れへと向かっていく。
トッシュにも恐怖はあったが、子鬼を相手にするよりは全然ましだと心を奮い立たせ、大切な人を守るべく行動に出た。
鬼気迫る表情のトッシュを目にし、野良犬たちは去っていく。
「大丈夫だった?」
自分も少女も無事でよかったと胸を撫で下ろすトッシュ。
「うん、ありがとう」
礼を述べながら、自分の服の袖を引っ張る少女の頭を、トッシュはぎこちなく撫でる。
その一件以来、少女はトッシュに淡い気持ちを抱いた。
しかしながら少女にはまだ、年上のトッシュに対する憧憬と恋心の違いが、区別出来てはいなかった。故に少女は、はっきりした愛というよりはおぼろげな好意をトッシュに抱いていた。
それから一年間、トッシュと少女は日々逢瀬を重ね、二人の仲はさらに深まっていった。
元より成長期だったのか、少女だと思っていた女の子は一年という期間で見違えるように成長していった。